荷物は玄関に置いたバックが一つ、あとはほとんど処分してしまったから最後の夕食はコンビニのおにぎりで済ませた。
ガランとなった部屋を見渡した。
一人暮らしを始めたのが五年前。
たくさんの思い出が蘇ってくる。
結局マンガは売れないままだった。
だけど、今はシャルルの元に行かれる事が何よりの幸せだった。
感傷に浸っていると、ジリリリっと電話が鳴った。
「すまない、急な用事が入ってそっちに行けなくなった」
「そうなの?でも荷物は捨てちゃったし、どうしよう」
「オレの代わりにマルクをそっちに向かわせた。ドゴール空港には迎えに行くから君は予定通り来てくれ」
「わかったわ。ゴボッ、ゴボッ……」
「嫌な咳だな」
「なんかね、風邪なのかな」
「こっちに来たら診てあげるよ。のどの痛みや熱はない?」
「うーん、たぶん」
「じゃ、今夜は早く寝た方がいい」
「えぇ、そうするわ」
「マリナ……」
「ん?」
「本当に後悔しない?」
明日、パリに行くっていうこのタイミングでシャルルは最後にあたしの気持ちを確認しようとしてるのがわかった。
「後悔?しないわ。あたしはシャルルと生きていきたいの。もう離れたくないって、そう思ってる」
三年ぶりにかかってきたシャルルからの電話であたしは「会いたい」とただ、それだけを伝えた。
その時のシャルルは受話器越しでもわかるほどに動揺していた。
そして少しの間の後、シャルルは苦しげに、そしてあたしの心にすがるように言った。
「オレは今でも君を愛している。それは何も変わらない。だけど今、君が一時の感情でオレを望んでいるんだとしたら、次はもう耐えられないと思う。オレにとって、君を失うほど辛いことはない。二度とあんな思いはしたくない。だから条件がある」
こうして出された条件がアパートを引き払うことと、パスポートをシャルルに預けることだった。
後戻りができない状況で、あの時のようにたとえ心変わりしたとしてもあたしの力では何もできないってことだ。
「つまり、オレは君を二度と手放す気はないが、それでもいいの?もっと言えばどんな汚い手を使ってでも、だ」
シャルルの言葉はあたしの胸に鋭く刺さった。それだけあの時シャルルを苦しめたんだと改めて知った。
「大丈夫。もう間違えたりしないわ。離れてみてわかったの。あたしはシャルルが好きなんだって」
シャルルが噛みしめるように息を飲んだのがわかった。
「わかった。予定が立ったら連絡する。それにしても、まさかこんな展開になるとは想像していなかった。君から何度も連絡があったと聞いて和矢に何かあったのかと思ったんだ。放っておこうかとも思ったんだが……どんな理由であれ、オレは君の声をもう一度聞きたいと思ってしまったんだ」
「シャルル……」
こうしてあたしはシャルルともう一度やり直すためにパリに行くことになった。
翌日、美弥さんがテムを迎えに来た後、シャルルの代わりに来たというマルクがアパートに迎えに来た。
アパートの前の小さな路地には似つかわしくない黒塗りのハイヤーが待っていた。
アパートを振り返るあたしにマルクが言った。
「マリナ様、参りましょうか」
「ええ」
あたしは車に乗り込んだ。
もう振り返ることはしなかった。
これからはシャルルとの未来が待っているんだ。
早くシャルルに会いたい。
そう思っていたのに……。
つづく