車の窓から建物が見えてきた。
オレはシートから体を起こし、それを見上げた。
外観は悪くない。
「今年の夏にオープンしたばかりで、すごい人気らしいですね。海外からもお忍びで泊まりに来る方も多いとか。お客さんも有名なモデルさんか何かですか?」
「……」
「い、いえ、違います」
タクシー運転手の話にオレが無反応でいると、マリナがあわてて相槌を打った。
「ちょっと、気まずいじゃない。答えるぐらいしてよ」
マリナはオレを肘で小突くと小さな声で言ってきた。
「話す必要などあるか?」
「話しかけられたら普通は答えるでしょ」
小声でのやりとりの後、マリナが言うならとオレは仕方なく口を開いた。
「ヨーロッパを中心に展開してきたが、市場をアジアにも広げることになり、その先駆けとしてまずは東京にと考えた。我がアルディグループのホテル部門はより洗練されたサービスと一つ上を行くラグジュアリーな空間提供によって人気を博しているようだな」
「……」
車内に沈黙が広がった。
運転手は恐縮し、それ以降は話しかけてこなくなり、マリナは隣で深いため息をついた。
**
正面玄関を入り、そのままエレベーターへ向かった。
20階のボタンを押すと、マリナが意外そうに言った。
「あんたの事だから最上階かと思ったけど違うのね」
「泊まるのはもちろん最上階スイートだけど、その前にキーをもらわないとね」
「だったらロビーは一階にあったわよ」
その時、ポーンと柔らかな音が到着を知らせた。ベルを一つ鳴らしたような鋭い音とは違う。これはオレのこだわりだった。
心地良さの扉はあくまでも温もりを感じさせるものがいい。
「いいから、おいで」
目の前に広がるラウンジ空間にオレは一つ頷き、歩みを進めた。
支配人が一礼をしてオレ達を迎えた。
「アルディ様、ようこそ起こし下さいました。支配人の楠木と申します。あちらのブースでご案内等させて頂きます」
対応も悪くない。
オーナーのオレに対しても、変にへりくだる様子も見せず、心からの感謝を見せた。
「アルディだ。案内は結構だ」
「かしこまりました。こちらがルームキーでございます。それではごゆっくりとお過ごし下さいませ」
案内は不要だと告げるとすぐさま身を引くあたりはさすがだな。
再びエレベーターに乗り込み、最上階を目指す。
「上位客はあの特別ラウンジのブースでチェックインをするんだ」
「一階のフロントで順番を待ってするんじゃないのね」
「下でも順番待ちはないよ。すべてオンラインで管理させているから入り口でスマホをかざせばルームキーが自動で発行され、完了だ」
「ハイテクねぇ」
「待ち時間ほど無駄なものはないからね」
ポーンと再び到着を知らせる音が鳴り響いた。敷き詰められた上品な青色の絨毯に金の刺繍が天空を想起させた。
カードキーをかざし、中へ入った。
悪くない。
ざっと中を見渡しているとマリナは大きな窓の外に広がるテラスに吸い寄せられるように駆け出した。
「何これ、すごーい!」
ウッドデッキが一面に敷かれ、ソファとテーブル、その周りには植物と調度品、そして揺らめくキャンドルの光がとても幻想的だった。
大きな窓を全開にすると、リビングと一続きとなり、一気に開放的になった。
マリナの両親はオレ達の結婚を認めてくれた。事故以降のオレの行動を見て、どれほどオレにとってマリナが大切なのかを理解してくれたようだ。
そういう男にだったら遠く離れた外国でもマリナは幸せになれるだろうと父親は語った。マリナの記憶が完全に戻ったことも大きな要因だったのだろう。
マリナは記憶を失ってもなお、再びオレに恋をしたと父親に話した。
何度でも自分はシャルルを好きになると、それだけ愛しているとマリナが言った時、父親の表情は穏やかなものへと変わった。
「シャルル、あっちにプールがあるわよ!」
大はしゃぎなマリナの元へ行き、その腰に手を回した。オレを見上げるマリナの髪が風に揺れた。
「お気に召したかい?」
「うん、とっても素敵」
「それは良かった。ところで一つ聞きたいことがあるんだが」
「何?」
キャンドルの灯りがマリナの頬を照らした。
「正直、君に見せるか迷ったんだが」
以前ルパートが持ってきたマルクとの逢瀬を映した写真を取り出した。
二人の間に何かあっても仕方がないとも思っていたが、これから先のこともある。
マリナは写真を手に取り、慌てたようにオレを見た。
「何これ?!」
「親族の誰かが撮ったらしい。それで君のことは諦めて早く結婚相手を選べと言われたんだ」
「あたし、マルクとキスなんてしてないわよ?あっ……!もしかして、これ、マルクと中庭で話してた時に目に虫が入っちゃって、それでマルクが見てくれてた時だわ!うそっ……誰よ、悪意に満ちた角度で撮ったのは!」
虫?
やはりそういう類の物だったか。
キスぐらいとは思っていたが、オレは自分が思っていたよりもホッとしているようだった。
「君とのことをよく思っていない連中の仕業かな。さすがにオレも鵜呑みにはしなかったが、結婚のこともあるからね。はっきりさせておこうと思って」
「はっきりって、あたしは何もしてないわよ?」
「そうじゃなくて、これを撮った奴をだよ。こういう奴が今も屋敷の中にいると思ったら安心して家を空けられないからね。オレ達の結婚に異議のある奴は排除するだけさ」
「反対してる人、多いの?」
「いや、一部の血統主義の保守的な連中だけだ。オレは君以外と結婚する気はないと前から言っているし、奴らもわかっているはずだ」
「シャルル、大変じゃない?」
心配そうにマリナがオレを見上げた。
「全然。何も心配はいらないよ。反対するなら潰せばいいだけさ。オレは君に嫌疑がかかったことを晴らしたかっただけだ」
「シャルル……」
マリナに向き合い、ポケットから小さな箱を取り出した。
「これから先、アルディの名が重いと感じることがあるかもしれない。それでもオレは君と一緒にいたい。すべてのものから君を守ると約束する」
言いながら箱からリングを取り出し、マリナの手を取った。
「結婚しよう、マリナ」
薬指にそっと嵌めてやると、マリナはそれをしばらく見つめ、それから顔をくしゃっとさせた。
「泣きそうになるじゃない。あんた格好良すぎよ」
「それは生まれつきだから仕方ない」
瞬間、マリナは膨れっ面をした。
「少しは謙遜しなさいよ。あたしだけがこの風景とあんたの美貌に置いてけぼりになっちゃってるじゃない」
ごちゃごちゃ言ってるマリナを引き寄せ、唇を塞いだ。
マリナが静かになったところで唇を離した。
「返事は?」
するとマリナは頬を赤くしたまま、オレを見上げた。
「ありがとう」
「それは指輪の礼?」
「違うわよ。あたしを選んでくれてありがとうってこと」
「それはオレのセリフだな」
数々の男達の心を鷲掴みにし、本人はそれに気付いてるのか、気付いていないのか。
そんな中でオレが勝ちとった勝利だ。
マリナの体を抱き上げ、部屋の中へと歩き出した。
「きゃっ、急に何よ」
「もう、限界だ」
「え?何が?」
「それをオレに言わせる気かい?」
「あっ……」
fin