今日は朝から雨が降っていた。
バイトが休みでよかったと思いながらのんびり過ごしていると、テーブルの上に置いたままの携帯がブルブルっと振動した。
また関係のない何かの通知かな。
起き上がるのが億劫でそのまま放置していると、なかなか鳴り止まない。
ん?
もしかして電話?
急いで立ち上がり、テーブルに駆け寄った。
画面を見ると見知らぬ番号からだった。
出ようか、どうしようかと悩んでいるうちに留守電に切り替わった。
「もしもし、こちら桑葉出版の七瀬と申します。先日持ち込み頂いた原稿の件でーー」
そこまで聞いてあたしは慌てて電話に出た。
「もしもし、池田です!原稿見てくれたんですね?!仕事ですか?!すぐにでも描けます!何でもしますっ!いや、させて下さい」
「いや、すぐに仕事ではないんですが、他の作品も見させてもらおうかと思いまして、その相談をしたいのですが、今日ってこれから時間ありますか?」
「ええ、一日中空いています!」
こんなチャンスは二度とないわ!
あたしは勢い込んで返事をした。
「では15時にパリテックホテルのラウンジでいかがですか?」
あたしは壁に飾ってある時計を見た。
今は13時半。
パリテックホテルなら1時間もあれば行けるはずだわ。
「はい、大丈夫です」
「では、詳しい話は後ほど」
「はい。よろしくお願いします」
手当たり次第にいろんな出版社に送りつけていた原稿がまさかここに来て芽を出すとは切手代が無駄にならなくてよかった。
でもたしか桑葉出版って年配層向けの雑誌が多かったんじゃなかったっけ?
はて、あたしの描いた少女漫画のどこに惹かれたのかしら。
まぁいいわ。
とりあえず一張羅のワンピースに着替えて家を出た。
まずは第一印象が大事よね!
何が何でも仕事をもらいたい。
上手くいけば売れっ子マンガ家になって、億万長者も夢じゃないわ。
一発当てれば今のバイトだって辞められる。家に居ながら仕事ができるなんて最高じゃない!遅くなるかもしれないから念のため、和矢に出版社の人と会ってくると連絡を入れた。
電車を乗り継ぎ、あたしはパリテックホテルに着いた。
ロビーの横に広がる落ち着いた雰囲気のラウンジにはビジネスマンの姿が目立った。
10席ほどある中からそれらしき人物がいないかと辺りを見渡した。
すると40歳前半ぐらいの小太りな男性がすっと立ち上がった。
あの人かしら。
あたしは近づいて声をかけた。
「あの、七瀬さんですか?」
「改めて桑葉出版の七瀬です」
そう言ってポケットから名刺を出した。
「池田です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。とりあえず座りましょうか」
あたしは座りながら持ってきた封筒をテーブルの上に置いた。
「あの、いくつか描き置いてあったのを持ってきました」
あたしは緊張しながら言った。
七瀬さんが中を見て、思ってた物と違うってなったら仕事の話もここで終わりだ。
「では、拝見させていただきます」
七瀬さんは封筒から原稿を出すとチェックを始めた。
「これまでにマンガの仕事の経験はありますか?」
七瀬さんは原稿に落としていた視線を上げてこちらを見た。
「少し前までやっていたんですが、あまり売れずに担当者との折り合いも悪くてやめました」
隠しても仕方ないことだわ。
松井さんとは長い付き合いだったけど、最後の方はひどい言われようだった。
「そうでしたか」
そう言うと七瀬さんは原稿に視線を戻した。
「ジャンルは?」
「一応、少女向けです……」
「うちは年配の方向けの健康情報を扱っているんですが、マンガでわかりやすく伝えているんですよ。それで池田さんのリアルと言いますか、エグさと言いますか、画風が目に止まりまして、今回ご連絡差し上げたんですが」
画風が目に止まった……。
何て素敵な響き?!
やっとあたしの作品の理解者が現れたってことよね?
「今の所、もう一度言ってもらえませんか?」
すると七瀬さんはぶはっと吹き出した。
そしてあたしを真っ直ぐに見つめた。
「あなたが、私の目に止まったんですよ。どうですか、詳しい話をしませんか?」
耳に小気味の良い言葉にうっとりしながらあたしは二つ返事で答えた。
「では、ここでは何ですので、上に部屋をご用意してますのでそちらで打ち合わせしましょう」
思わず「はい」と言いかけてあたしはすんでのところで言葉を飲み込んだ。
上に部屋を用意してるってホテルに部屋を取っているってことよね?
それってキザな男がディナーの後にテーブルの上にルームキーを置きながら言うセリフじゃない?!
君がデザートだよ、とか何とか言いながら誘うやつよ。
「部屋でですか?」
すると七瀬さんはニタっと笑みを浮かべた。
「そうだよ。悪いようにはしない。仕事が欲しいんだよね?何でもするってさっき言ってたよね?」
言った。
たしかに言ったけどそういうことじゃない!
「それは言葉の綾というか」
「あんたさ、本当に実力で仕事がもらえるとでも思ってたの?子供じゃあるまいし、分かるだろう?」
七瀬さんは人が変わったように急に横柄な態度になった。
枕営業……。
そんな言葉が頭をよぎった。
「馬鹿にしないで下さい。あたし、帰ります」
バカバカしい。
何が悲しくてこんな小太りとベットインしなきゃいけないのよ。
イスを蹴る勢いで立ち上がり帰ろうとした時、七瀬さんがあたしの腕を掴んだ。
「おいっ」
「離して下さい」
振りほどこうにもがっしりと掴まれていてできない。
できれば悪目立ちはしたくない。
こんな所までわざわざ来ておいて、体目当てだったなんてかっこ悪すぎる。
和矢には知られたくない。
あいにく周りの人達は気づいていない。
みんな自分の世界に没頭してる。
「少しの我慢でこの先も仕事が来るんだ。それに気持ち良くしてやるんだから悪い話じゃないだろう」
バカバカしくて話にならないわ。
「離せ、このエロおやじ!」
「何だと?!」
それに逆上した七瀬はあたしを掴んでいる方と反対の手を振りかぶった。
まずい、ぶたれる!
ぎゅっと目を瞑った。
「あたたた……」
するとうめき声と共にあたしを掴んでいた七瀬の手がすっと離れた。
目を開けてあたしは息を飲んだ。
「!!!」
後ろ手に腕をねじ上げられ苦痛に顔を歪ませた七瀬が膝をついていた。
当然、ラウンジ内にいた人達も全員がこちらを見ている。
フロア中の注目を浴びて、完全に目立っていた。
たしかにこれじゃ、刑事ドラマでよく見る刑事と犯人だわ。
「きさま、何者だ?」
「彼女の知人だ」
つづく