翌日、血液検査の結果を受けて、マリナの腕に入れてあるサーフローを抜くために病室へ向かった。
国際医師免許を持つオレはマリナの担当を任せてもらえるように病院側にはすでに話を通した。
「調子はどうだい?」
ベットに座ってテレビを見ていたマリナが不満げな顔をした。
「暇すぎて死にそうだわ」
マリナらしいその言い方に思わず笑みが浮かんだ。
たしかにアルバニア語の番組はどれも退屈なんだろう。
「それなら散歩にでも行く?」
するとマリナがパッと顔を輝かせた。
「外に出てもいいの?」
オレは頷いた。
「検査結果も良好だったし、医者のオレが一緒なら問題ないからね」
「あたし、ケーキが食べたい!」
オレの言った散歩が、マリナの中ではだいぶ拡大解釈されたようだ。
それでもマリナの願いはすべて叶えてやりたいと思った。
「それなら近くにホテルがあるから、そこのラウンジに行こうか」
マリナが退院する時のためにと用意していた服に着替えさせ、オレはマリナを連れ出した。
ショーケースに並ぶケーキを見て、マリナはどれにしようかと悩み始めた。
「チョコもいいけど、タルトも捨てがたいわね。アップルパイも美味しそう!どうしようかな?」
食欲は以前と変わっていないようだ。
マリナはマリナのままだ。
ただ一つ違うのは、マリナの中にオレが存在していないということだけなんだ。
父親の言ったようにマリナはオレを……。
「ねぇ、聞いてる?シャルルさんはどれにするの?」
「君が選んでくれないか?」
マリナは不思議そうな顔でオレを見た。
「だって好き嫌いとかあるでしょ?あっ……ごめんなさい。あたし……」
オレの好みを忘れてしまっていることに後ろめたさを感じたのだろう。
元々、デザートにあまり興味はない。
特にマリナにそういう話をしたこともなかったが。
「君が選んでくれるなら毒でも食べるよ」
「え?」
戸惑うマリナに冗談だと言ってごまかした。
「その冗談、笑えないわよ」
「そうだな。では、決めかねているなら全部頼むとしよう」
8種類のケーキを前に幸せそうなマリナの笑顔を見られるだけでオレは満足だった。
「シャルルさんは食べないの?」
「全部食べていいよ」
言葉にすると怖がると思い、言わなかったが、オレはマリナを見ながら紅茶を堪能するだけで十分だ。
「本当に?!」
「あぁ、好きなだけ食べるといい」
「こういうの、レディーファーストって言うの?あんたもマルクもフランスの男の人って優しいのね!」
マルクも……か。
無邪気に話すマリナとは逆にオレは乱れそうになる心を紅茶で鎮めた。
病院に戻り、面会の開始時刻になると両親が姿を見せた。
病室にいるオレを見て父親は厳しい表情を浮かべた。
「池田さん、検査の結果は順調でした。ここからは言葉での意思疎通も必要な上に、アレルギーの専門医がここにはいないと言うことで、病院側から国際医師免許を持つオレに担当医になって欲しいと要請があり、オレはアレルギーも専門だったので引き受けることにしました。無事に退院を迎えるまで、責任を持って担当させてもらいます」
アレルギーの担当などというものはないが、それらしくオレは言った。
そういうことならと父親は渋々だったが、
「どうぞマリナの事、よろしくお願いします」
母親は優しい笑顔をオレに向けた。
少なからずオレに同情しているのだろう。
陰ながら見守るような視線にオレは小さく会釈で返した。
「マリナ、アパートは引き払ったらしいじゃないか。日本へ戻ったら家に帰って来なさい」
すると突然、父親が言い出した。
「え?引き払ったって、どういうこと?」
そうか、オレに関わる記憶がこの辺りまで及んでいるのか。
「アパートを見てきたが、空室になっていた。大家に聞いたら退居したと言ってたぞ」
マリナは身に覚えのないことに戸惑いを見せた。
「覚えてないわ」
「健忘症は突然思い出すこともあるから心配しなくて大丈夫だよ」
「でも……」
不安なのはわかる。
だが、治療法がないのが現状だ。
「無理に思い出さなくてもいいだろう!お前は日本に帰るんだ。勝手に家を出て、勝手にパリに行こうとなんてするからこんなことになるんだ」
父親が痺れを切らしたのか、言葉を荒げた。
「お父さん、そんな言い方したらマリナが可哀想じゃない」
「本当のことだろう。だいたいパリで暮らすなんて一言も聞いてないぞ」
「今、そんな話をしなくても」
「お前がそんなだからマリナは勝手なことばかり……っっ……うっ……!」
「お父さん?!」
「お父さんっ?!」
父親は胸を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
心臓か?!
「池田さん、しゃがむと心臓が圧迫されてしまう。ゆっくりと横になって下さい」
母親は目の前の光景に圧倒されていた。
オレはその場に父親を寝かせ、マリナのベットからナースコールを押した。
すぐにストレッチャーで検査室へ運ばせ、
血液検査と心エコーによって血栓を確認した。
すぐに血栓溶解薬を打ったことと、閉塞箇所もわずかだったため、大事には至らなかった。
娘の命が危険に晒されたことで強度のストレスがかかっていた結果、心筋梗塞を起こしたのだ。
オレは父親までも……。
つづく