きらのブログ

まんが家マリナシリーズの二次創作サイトです。

君と蒼い月を 1

 

「すいません。時間なので上がってもいいですか?」

店長は時計をチラッと見ると無表情のままで言った。

「ゴミぐらい捨ててって」

「はい」

あたしは急いで厨房内のごみ箱を交換してごみ庫に捨てに行った。
鉄扉を開けると外はムワッと纏わりつくような暑さだった。
申し訳程度についているエアコンは厨房内ではほとんど意味がない。
汗で体中がベタついて気持ちが悪い。
辞めようと思いつつも今日も言い出せずに終わった。

「すいません、お先に失礼します」

忙しく働く店長とバイトの人達に声をかけ、あたしは厨房を後にした。

「まだあんなに皿溜まったままじゃん」
「週末に時間で帰るとかありえねぇ」
「仕事もできないくせに帰るのだけは早いよな」

そんな言葉が後ろから聞こえてくる。
週末の夜9時はいつも慌ただしく、上がりの時間になっても自分から言わないと帰らせてもらえない。

「気にしない方がいいわよ。時間なんだし、キリがないもの。だいたい人が少なすぎるのよ」

更衣室に続く通路で立花さんが声をかけてきた。立花さんはあたしの3つ上の先輩でホールを担当しているバイトリーダー。
みんなのお姉さん的な存在の人。

「いえ、全然片付いてないのに帰らなくちゃいけなくて本当にすいません」

「彼氏さん、時間に厳しいんだったよね」

「少しだけですが」

「そうだ、ちょっと待ってて」

そういうと立花さんはロッカーから鞄を出して小さな袋をくれた。

「この間、風邪で休ませてもらった時に池田さんも出てくれたでしょ?ほんの気持ちなんだけど、よかったら彼氏さんと食べて。デパートでフランスフェアっていうのをやってて美味しそうだったから買ってきたの」

見ればポップに描かれたエッフェル塔がプリントされた可愛いらしいクッキーの袋だった。

「すいません、わざわざありがとうございます」

「引き止めちゃってごめんなさいね。じゃ私は戻るわね。池田さんも気をつけて帰ってね」

そういうと片手を上げて立花さんはホールに戻って行った。
あたしが帰るのを見てわざわざ来てくれたんだ。
帰ったら一緒に食べよう。
滅入る気持ちを振り払い、あたしは急いで家に帰った。
アパートの前まで行くと人影が見えた。
端正な横顔が街灯に照らされながら、真っ直ぐにあたしの方を見据えている姿にゾクっとした。
あたしは駆け寄り、声をかけた。

「どうしたの、和矢?」

「今日は9時までだったろ?遅いから迎えに行こうかと思ってたとこ」

思わずあたしは腕時計を見た。
まだ9時半を少し過ぎたところだった。
お店までは歩いて15分。
そんなに遅くないと思うけどな。

「前に話した立花さんって覚えてる?その人が……」

あたしは慌てて遅くなった理由を話そうとした。だけど和矢はあたしの話が聞こえてないのか、辺りを気にする素振りをみせた。

「どうかした?」

「いや、なんでもない」

そういうと和矢は黙ったまま歩き出し、階段を上がって行く。
あたしもそれに続いた。
あたし達が同棲を始めたのは三ヶ月前。
まんが家の仕事が全然来なくなり、四ヶ月の家賃滞納した段階でアパートの強制退居を告げられた。
その時に和矢から一緒に暮らさないかと言われたのがきっかけだった。
和矢は大学を卒業し、4月からお父さんの会社で働き始めていた。
まずは現場を見て学べ、と営業部に配属されたばかりだった。
そんな大変な時期に本当にいいの?と聞くと、

「家に帰っても社長がいるってのは息がつまりそうだしな。俺も自立したいしさ」

和矢は参ったという顔をしてたけど、それはあたしが負担に思わないようにって気遣ってくれたんだと思う。
和矢のお父さんは優しそうな人だから絶対に息が詰まるなんてことはないと思った。
選択の余地がないあたしはそんな和矢の優しさに甘えることにした。
二人であちこちの物件を見て回り、どの部屋にしようか、カーテンは何色にしよう、ソファはどれにしようかと買い物に出かける度にレストランやカフェに立ち寄り、あれこれと話をし、まさに新婚気分だった。
和矢が仕事に行くと、あたしは家事を済ませてまんがを描いて過ごした。
和矢に頼ってばかりはいられない。
だけど編集部への持ち込みはするものの、ストーリーが古い、主人公がパッとしない、整合性が取れていないと指摘は厳しく、一向に仕事に繋がる気配すら見えずにいた。
そんなある日、編集部からの帰り道であたしは近くにある中華料理チェーン店のアルバイト募集の看板を目にした。
とりあえず中へ入ってみた。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

女性が笑顔で迎えてくれた。
いきなり入ったのはまずかったかしら。
完全にお客さんだと思われている。

「あの、外のアルバイトの看板を見たんですが」

おずおずと答えると女性は少しお待ち下さいと言って中へ入って行った。
初めて入ったお店だったけど、明るい店内に静かなBGM、働く人達は活気があってとても良い雰囲気だった。
しばらくするとさっきの女性が戻ってきた。

「今ちょっと混み合っているので、夜の20時にまた来られませんか?」

和矢が帰宅するのはだいたい19時頃。
帰ってきてすぐに入れ違いで出かけるのは抵抗があったけど、ここで断ったら融通が効かない奴だと思われて落とされるかもしれない。
あたしは迷いながらも来られると答えた。

「では20時にお待ちしております」

「はい、よろしくお願いします」

こうしてお店を後にした。
これが最初の間違いだったのかもしれない。

 

つづく