「パスポートは持っているのか?」
念のため確認してみると女は躊躇もせず堂々と首を左右に振った。
「さすがに財布はあるんだろうな?」
「……。」
ではそのショルダーバックには一体何が入っているというんだ?と聞きたくなる。
「来い。」
フレデリックの慌てた顔を見て、オレ自身、なぜこんな言葉が出たのか驚いた。
「来いって、あんた、あたしを売り飛ばす気ね?!」
女は半身に構えるとオレを睨みつけてきた。どこからそういう発想になるのか。
いちいち面倒くさい女だ。
そもそも自分にそれだけの価値があると考えているなら相当な楽観主義者だ。
無知な上に短絡的な思考、明らかに自分とは一番遠い世界にいる種類の人間だ。
だが……ニューロンの結合、相対強度の仕業なのか、どこか懐かしささえ感じていた。
「痛っっ!」
オレは女の手を取り、さっと患部周辺に視線を走らせた。少し腫れてはいるが折れてはなさそうだな。
「こんな手では売り物にもならないだろうな。ろくに満足させることもできない。」
「な、な、なんですって?!」
「小指軟骨損傷の可能性は低いが、おそらく手関節靭帯の損傷だ。程度にもよるが、すぐには治らない。」
「何よ、きゅ、急に……。」
「治す気がないなら結構。」
「何それ、あたしを脅してるの?!」
「お二人ともどうか……!続きは車の中でお願い致します。マドモァゼル、この方は非常に優秀な医師です。ぜひあなたの治療がしたいとおっしゃっているのでご一緒していただけませんか?シャルル様、ご自分の立場をわきまえて下さい。」
フレデリックの一言で不覚にも自分の視野が狭くなっていたことに気づかされた。
辺りに人が集まって来ている。中には動画を撮っているのか、携帯をこちらに向けている者もいた。
さすがに日本語でのやりとりだから問題はないだろうが、少々目立ちすぎたか。
オレとしたことが周りが見えなくなるとはな。仕方がない。
オレは改めて女に向き直り、屋敷での治療を提案した。
***
関節に力をかけた状態で行うストレスレントゲンを行った結果、やはり軽度の靭帯損傷であった。まだ炎症が見られるためアイシングとテーピングで可動域を固定した。
「一週間もすれば痛みは引くはずだ。鎮痛剤は今夜と明日一日飲めばいいだろう。夕食後に用意させる。」
「あの、それって、どういう……?」
「日本大使館への渡航証明書の発行依頼、及びパリドゴール警察署への届け出はフレデリックに行かせた。財布がないのでは、どこも泊めてはくれまい。大使館から出国に必要な書類が届くまでの間、ゲストルームを好きに使ってくれて構わない。」
「あの、泊まらせてもらっちゃっていいんですか?!助かります。」
そう言って女は感謝を口にした。検査をしている辺りからおとなしかったが、最初とはずいぶん女の印象が違う。
どちらにしろ人助けなんて似合わないことをしていると自分でも驚く。
日本人……。
それだけが理由だとすれば、記憶の底に眠らせた思いはまだオレの中で燻っているということか。
つづく