「あ……」
沙耶さんは小さく声をあげてから慌てたように手で口を塞いだ。
これ、あたしもよくやるわ。
駅に着いてからお財布を忘れたことに気づくとか、せっかく買い物メモを書いたのにスーパーに着いてからメモを持ってきてないことに気づくとかね。
「忘れ物ですか?」
あたしが心配してそう聞くと沙耶さんが閉まるボタンを何度も押した。扉はゆっくりと閉まり同時に少し興奮したように沙耶さんがあたしの肩を叩いた。
「忘れ物?!ちがう、ちがう!
マリナちゃんは気づかなかったの?!
今の絶対にミレーユ・ヴィオレーヌよ!サングラスかけてたって分かるわ。
それに彼女、エゴイストプラチナムをつけてた。彼と同じものよ!しかも日本にまで一緒に来てるなんてやっぱり噂は本当だったのね」
沙耶さんは興奮気味に次々と証拠を見つけて事件を暴いていく刑事のようだけどあたしはあまりわかっていなかった。
さっきエレベーターから降りてきた外人さんがシャルルの噂の女性なのはわかったけど家にテレビがないあたしは彼女の顔をよく知らなかった。たぶん沙耶さんに言われなかったら単に綺麗な外人さんで終わりだったと思う。
それからエゴイストって自己中の人ってことよね?それがなぜここで出てきたんだろう。
「エゴイストがどうしたの?」
沙耶さんは仕方なさそうにフーっと息をはくと丁寧に説明してくれた。
「エゴイストじゃなくてエゴイスト プラチナムっていう香水の名前ね。前に雑誌で読んだことがあるの。彼はこの香水を愛用しているってね」
そこでいったん言葉を切るとグッとあたしのそばに顔を近づけてきた。
「つまり噂のお相手、ミレーユも彼と同じ香りがするってことは二人はもうそういう関係ってことでしょ?
何だか二人だけの秘め事をのぞき見しちゃった気分でこっちが恥ずかしくなるわ」
日本にも届いてきたシャルルの熱愛報道を耳にしてもどこかただの噂なんじゃないかとか思っていたのかもしれない。
エレベーター内の残り香はそれを否定するかのようにあたしの鼻に付きまとう。フレッシュな感じの香り。あたしの知っているシャルルとは違う香りだ。
だけどシャルルが女の人を連れて仕事に来るなんて信じられなかった。
それほどシャルルが彼女に夢中って事なのかもしれない。
それは手放せないほどに……。
その現実に目が眩んだ。永遠に愛していると言ったシャルルの言葉をあたしはどこか期待していたのかもしれない。夢の中であたしへと向けられていた愛はすでにシャルルの中では過去のことであたしだけが一人取り残されているだけなんだと思い知らされた。
あたし、本当にシャルルを失ってしまったんだ。もう二度と取り戻すことができない大切なものをあたしは手放してしまったんだ……。
その瞬間、ガーンッと何かがあたしの体にぶつかってきた。
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
沙耶さんがびっくりした顔をしている。
エレベーターはすでに三階に到着していてぼんやりとしていたあたしを閉まろうとする扉が体当たりしてきた。扉は危険を感知して慌てたようにあたしから離れていった。だけど態勢を崩したあたしは扉の端に手をついてたものだから開く扉に巻き込まれるように右手の指がイヤな音を立てて入ってしまった。
「痛っっ!」
「マリナちゃんっ?!」
次の瞬間、人の動きがないエレベーターは扉を閉めて次の階を目指そうとした。
うそでしょ?
扉が閉まろうとするってことはあたしの引き込まれた右手ごと引き出されるってことよ!絶対に指がちぎれるじゃない!
ぎぇーっ!
だけど開閉ボタンも非常ボタンも何もかもが扉の左側に付いているのよ。押したくたって届かない。
右手にはわずかに動かせる空間がありそうだけど目で見えない分、余計に怖くて動かせられない。
沙耶さんが慌てて外のボタンを押してくれて扉は動こうとするのをやめた。
だけどこれって数秒後にはまた扉は閉まろうとするわよね。
不安と恐怖、加えて自分の手首から先が見えない光景にあたしはもうパニック寸前だった。
「どうしたっ?!」
しばらくすると一人の男性が近づいてきた。すぐにあたしの異変に気付き、エレベーター内の非常ボタンを押した。
すぐにスピーカーから声が聞こえてきた。
「警備室です。どうされましたか?」
「引き込み事故です。エレベーターの非常停止と救助隊をお願いします」
スピーカーごしに警備室の緊張が伝わってくる。
「三階で事故発生、至急……」
一気に緊張が緩んだせいか、興奮していて今まで感じていなかった右手の痛みが一気に押し寄せてきた。
「マリナっっ!?」
失われていく意識の中であたしは懐かしい声を聞いたような気がした。
つづく