「ブル ボン家のアンリ 4世がフランス国王として即位した1589年からブルボン朝が始まる。1792年に一時中断するものの1814年から再び1830年まで続く。ここまではいいよな?」
あたしはいつものように頭を抱え込み、ミシェルはため息をついた。勉強を始めてからすでに二時間、さすがに疲労困憊、集中力なんてどこかへ散歩に行っちゃったわよと言いたいぐらいだった。
「お前の神経細胞には樹状突起が存在しないのか?」
「何よそれ?」
「つまりこの中には情報を記憶する脳内神経細胞ネットワークはないのかって意味だ」
ミシェルは苛立たしげにあたしの側頭部を指差した。
「そんな言い方をしたらマリナさんが気の毒ですよ。私だってそんなに一度には覚えられないですもの。ミシェルさんが特別なんです」
カウンターの向こうからトレーを手にしたアネットが姿を見せた。
いつもは図書室でしている勉強だけど今日は何年かに一度のメンテナンス日らしく、仕方なくミシェルの執務室で勉強をしているんだけど二人きりになるとシャルルがうるさいのよ。
だから今日はアネットにも付き合ってもらったの。
「今日はセレスと一緒にクッキーを焼いたんですよ」
アネットは紅茶を乗せたトレーをテーブルに置き、手際よくそれらを並べ始めた。
あたしは甘い香りに誘われるようにさっさとテーブルについた。
「うわー!美味しそうね」
籠の中には赤色と薄茶色の四角い市松模様のクッキーが入っている。
「また厨房に行ったのか?」
ミシェルはちょっと嫌そうな顔をしながら歩いてきた。またって言うぐらいだからよくあることなのかしら。それならぜひ、あたしも誘ってほしいわ。もちろん作る時じゃなくて食べる時によ。
「ええ、ちょっとお邪魔してフレーズとバニラのアイスボックスクッキーを作ったんです」
「アルディの男子が厨房で菓子作りなど……」
ミシェルは信じられないといった様子で小さく首を振り、額に手をあてた。
「小さいうちから何でも経験させた方がいいとおっしゃったのはミシェルさんじゃないですか。それにセレスもとても楽しそうでしたよ。これなんてとっても上手だと思いませんか?セレスがパパにあげてね。と言ってましたよ」
アネットは籠の中に入っている1枚のクッキーを指差した。それを見た途端ミシェルは参ったといった顔をした。
それはバニラ生地だけで作られたのか薄茶色のイルカの形をしたクッキーだった。
「パパはきっとイルカさんが好きだからって」
アネットはにっこりと微笑むとゆっくりと後ろを振り返った。あたしもつられて振り返った。
その視線の先にはガラス細工でできた小さなイルカの置物があった。
あれはずっと前にアネットが雑貨屋さんで買ってたものだわ。
もらってくれるか心配だとアネットは不安を口にしていたけどちゃんと渡せていたんだ。
仕事に関係のないものは必要ないってパソコンと羽ペンしか置いていなかったあのミシェルが机にあのイルカを置いているのを見てあたしは何だか嬉しくなった。
あのミシェルが……変われば変わるものね。
そしてセレスは幼いながらもあのイルカが両親の素敵な思い出の品だとわかっていたのね。
結局シャルルの仕組んだ誘拐事件のおかげなのかあたしとシャルルが結婚をした翌年、二人も見事ゴールインした。
「おかえり~ルナちゃん!」
「ただいま、セレス。今日は何をしていたの?」
「ママンとクッキー作ったんだ。ルナちゃんの分もちゃんとあるよ!」
庭先から子供達の声が聞こえてきた。
窓を開けてみるとシャルルによく似た愛娘ルナが幼稚園から帰ってきたようだ。
「セレス~!私がパパとママにご挨拶してきたら一緒におやつにしよう!」
「うん!僕も一緒にご挨拶に行く~!」
まるで姉弟のように育った二人は大の仲良しで、こうしてセレスはルナが幼稚園から帰ってくる時間にはいつも玄関先まで迎えに出るのが日課になっているの。
「ルナ様、アルディ家のご令嬢がそのような大きな声を出してはなりません。セレス様、お屋敷の中は走ってはいけません。
お二人ともお静かになさいませ!」
迎えに出ていた執事のジョセフさんが慌てて二人の後を追いかけている。
「ジョセフさんの言う通りよ。静かにできないならおやつはなしにするわよ」
あたしは身を乗り出さんばかりに二人に声をかけるとミシェルが慌ててあたしに駆け寄り、腕を掴んだ。
「おい、落ちるぞ。窓枠に腹部を押し付けるのも胎児に良くないぞ」
その瞬間、入室を告げるノック音と同時にシャルルが姿を見せた。
「入るぞ、ミシェル。先週分の海底資源の資料はどこに……っておい、マリナから離れろ!」
「おい勘弁してくれ。オレはこいつが落ちそうだったから助けただけだ」
ミシェルは両手を上げてあたしからサッと離れた。
とその時、あたしのお腹の中でドンって……。思わずお腹に手をあてた。
「マリナっっ……どうした?!」
異変に気付いたシャルルがあたしの顔を覗き込む。
「痛むのか?!」
あたしは首を振った。
「動いたの!赤ちゃんが動いたわ」
その瞬間、シャルルはホッとした表情になりあたしを優しく抱き寄せた。
「マリナ……愛している」
シャルルの言葉に反応したのかぽこぽこっと再び赤ちゃんが動いた。
「また動いた!」
たくさんの幸せを連れて暖かい春風が窓からふわりと流れ込んできた。
fin