その日は案内された病室で過ごし、翌日の手術に備えて必要な検査をいくつか受けただけで終わった。
術前の夕食は消化の良いものしか出さないから期待はするなとシャルルに言われてたけど目の前に置かれたトレーを見てがっかりせずにはいられなかった。
隙間だらけのトレーにはマッシュポテトとかぼちゃのポタージュ、それに小さなお皿に無糖のヨーグルトと薄くカットされたバナナがちょんと二つ乗っているだけのとても慎ましいものだった。
しかも夕食が済んだらその後は絶対に何も口にするなと手術に関する説明を受けた時にシャルルにしつこく言われた。
なんでも手術は全身麻酔で行われるため嘔吐や誤嚥肺炎を避けるためらしい。だけどだめって言われると余計に欲しくなるのよね。でもしょうがない。起きてるとお腹がすくだけだから早いとこ寝ちゃうのが一番。
ベットボードにあるスイッチに手を伸ばして明かりを消した。
シャルルの説明だと視覚野がある後頭葉に特殊細胞を注射するらしいんだけど想像しただけで痛そうだわ。
頭に針を刺すんだもん、そりゃ痛いわよね。あまり太いのだと嫌だな。でも麻酔をするから分からないのかとあれこれと考えながら……寝るつもりだったのが気づけば何も考えることなく朝を迎えた。手術室へは看護士さんに付き添われながら歩いて向かった。
すでに手術の準備に入っていたシャルルとは手術室で会うことができた。通常だと患者が麻酔で眠った後にお医者さんは姿を見せるらしいけどシャルルは手術前にあたしと話す時間を作ってくれたようだった。
「マリナ、何も心配はいらない。オレが失敗したことはこれまで一度だってない。目が覚めたら全てが終わっている。安心して眠っておいで」
「うん。大丈夫、あんたを信じてるから」
あたし達のやりとりが終わるのを待って麻酔医がシャルルに何かを尋ねている。「Est-ce que je peuxcommencer? 」
(始めてよろしいですか?)
「始めていいか?って」
シャルルが通訳してくれる。あたしが頷くとシャルルは麻酔医に声をかけた。
「Oui, il m'a commence」(始めてくれ)
「Oui, docteur」(はい、ドクター)
シャルルの合図であたしの顔にマスクがかけられ麻酔医がゆっくりと数字をカウントし始める。
「un、deux、trois、quatre、cinq……」
これもやっぱりフランス語なんだと思っているうちに記憶がなくなった。
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肩をトントンと優しく叩かれ微睡みの中から現実の世界へと呼び戻される。
「マリナ、全て終わったよ」
ぼんやりとする意識の中でシャルルの声が遠くで聞こえる。
あぁ、もう終わったんだ。
重たい瞼をこじ開けるように目を開けるとシャルルの顔がぼやけて見える。
「気分はどう?」
あたしは頷いて答えようとするけど言葉がはっきりと出ない。
「うん、頭がぼーっ……と……」
それだけ言うのが精一杯だった。
「手術は成功したよ。まだ麻酔が効いているからもう少し眠るといい」
いやいや、無理やり起こしたのはあんたじゃないと思いつつも、あたしは夢の中へと引きずり込まれるように再び眠りについた。
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眩しいほどの光が窓から差し込んでいる。そうだ、手術は終わったんだった。
メガネをかけていないせいで景色はぼんやりとしている。
だけどそれだけじゃない。
見えている景色は今朝と何一つ変わってなかった。
やっぱり半分しか見ていない。
手術はうまくいかなかったんだ。
シャルルは成功したって言ってたけど、まだこの事に気づいてないんだわ。
あたしは自分のことよりシャルルの事が心配になった。
パリに戻ってからも多くの時間を費やし、研究を重ねてやっと完成させたと言ってたそれが失敗だったと知ったらシャルルはどう思うだろう。
つづく