和矢は手の甲で口元を拭いながら「痛ぇっ」と小さく吐き捨てるように言って顔を歪めた。それから自分の指先に視線を移すとフッと不適な笑みを浮かべてシャルルに向かってその手を伸ばした。
それは反撃の拳ではなく開かれたままの手だった。
「昔、この木の下でお前の肩に虫が付いてたのをオレ、毒虫って知らずに触ってすげー腫れたことあったな」
その瞬間、シャルルのこめかみがピクリと動いた。言われてみたら和矢の手は少し赤く腫れている。
「和矢、まさか……」
信じられないといった風にシャルルは首を振った。和矢はそんなシャルルを見て頷いた。
さっきまで二人の間に流れていたドロドロとした淀みのような物が一瞬で洗われ、清らかな流れに変わったかのようだった。
「ああ。マリナの肩に止まった毒虫を見てお前との昔を思い出していたとこだ。
オレはそれを取り戻しにここへ来た。
シャルル、新しい形の凄い繋がりをオレと一緒に作っていかないか?ここで壊したオレたちの関係を同じこの場所から」
それはまさにアルディ家を追われる身となったシャルルの事を思った和矢があたしを連れて行けと言った時に交わされた言葉だった。
自分との関係を壊す事を恐れるなと言った時の和矢は本当はこんな日が来るとは思ってなかったんじゃないかと思う。
あれは友を思う精一杯の言葉だったはずだもの。
シャルルは参ったといった感じで和矢に歩み寄りハンカチを差し出した。
「あの毒虫は手で触るなって前にも言ったはずだ。アナフィラキシーを起こしても責任は持てないぞ」
和矢はそれを受け取り、口元を拭った。
「大丈夫さ。オレの親友に名医がいるんだ。そいつなら何とかしてくれる。この台詞、さっきも言った気がする」
「あぁ。セーヌで聞いた台詞だ」
あたしが入り込めない歴史が二人にはあってその思い出の一つがこうして二人を再び引き寄せてくれたんだと思うと胸がいっぱいになった。
その日は簡単な検査だけを済ませて明日、手術をする事になった。
あたしは一足先に部屋に戻り、それから一時間程でシャルルも戻ってきた。
「おかえり、シャルル」
大きな封筒を机において中から資料を取り出すとチラッとあたしに視線だけ向けて「ただいま」と言ってまたすぐに難しそうな資料に視線を落とした。
左手で顎を摘んで考え込んでいる姿はまるで彫刻か絵画のようでその美しさについ見惚れてしまう。
「和矢の肩は治ってなかったの?」
「いや、手術はしてあったが上腕骨頭が肩峰の下部へと移動する際の肩峰下滑液包がクッションの役割をするんだが粉砕骨折の手術の際に肩峰靭帯を無理やり繋げたんだろう。この肩峰下滑液包の動きが不自然だったため動きにくかったんだ。その部分を繋ぎ直せば元通りになる。だから明日は……」
うぅ……。
気安く聞いたあたしが悪かったとは言えシャルルの口からは耳慣れない単語が次から次へと飛び出してきてあたしは一気に脳停止状態!
「ストップ!待ってシャルル。専門用語が多すぎてよく分からないわ。いいのよ、もっと簡単な説明で」
シャルルは資料をテーブルに置くとあたしの隣に腰を下ろした。
「一時間も掛からない簡単な手術だよ」
あら、とっても簡単な説明になった。
「あんたに掛かればどんな手術も簡単に感じるだけなんじゃないの?」
シャルルは長い睫毛を伏せて小さく笑った。
「まあね。たが分からない事が一つあるんだ」
あたしはシャルルにも分からない事があるのかと少し驚いた。
「何が分からないの?」
シャルルは寂しげな表情を一瞬見せた。
自分には分からない事がないって普段から言ってるだけにここに来て急に分からない事にぶち当たって不安になったのかしら?と思ったけどそれはあたしが思ってもみないことだった。
つづく