涼やかな秋風に運ばれて彼女の笑う声がこぼれ落ちてきた。ふと見上げればカーテンが揺らめいている部屋が一つだけある。そして微かに聞こえてくるもう一人の声…。
時が止まったかのような静寂に包まれ、オレは動く事が出来なかった。
「シャルル様、どうかなさいましたか?」
オレの視線の先を辿るようにしてジャンが振り仰いだ。
「あの部屋の使用者は誰だっ…?」
「少々お待ちください。」
オレの問いにジャンは即座に反応し、携帯を取り出すとオレから少し離れて行った。確認が取れたのか程なくしてジャンが戻ってきた。
「お待たせしました。執事に確認をしたところあの部屋はポール・ブノワが使用しているとの事です。」
窓辺から聞こえてくるマリナの声の相手がなぜポールなのか。
二人に接点はない。
考えられる事といえば…。
オレは玄関に向かって歩き出した。
「この後の予定は全てキャンセルだ。」
慌てた様子でジャンがオレの後を追ってくる。
「しかし、アングージュ公爵との会食、環境保全事業促進シンポジウムへの参加、精神分析学における思想と臨床についての講演会がございま…」
オレは一旦足を止め、チラリとジャンに視線だけ向けた。
「今、オレはキャンセルにすると言ったはずだ。」
ジャンの応えを待たずに再び歩き出した。
オレの決定が全てだ。
誰の意見も聞くつもりはない。
一瞬の間をおいてジャンの返答が返ってきた。
「すぐに先方へ連絡して参ります。」
玄関ホールを抜け目的の部屋に向かう。逸る気持ちを抑えるが歩みは自然と早くなる。
たしかポール・ブノワはジルの秘書だ。
なぜ二人がゲストルームに…。
部屋の前に立ち、気持ちを落ち着かせる。オレの館ではあるが最低限の礼儀としてノックはした。
中からは物音ひとつ聞こえて来ない。
さっきの声は幻だったのか。
扉に手をかけ、一気に開け放った。
「マリナっ…いるのかっ?」
一歩、中へ入れば見渡せる程の広さの部屋に人の姿はなかった。
ゆらゆらと秋風に踊らされたカーテンだけがオレを待っていたかのようだった。
二人の姿を見ずに済んだ安堵からかホッとしている自分に気づいた。
オレは何を不安になっているというのだ。
******************
「ではまた明日。動詞の活用については復習しておいて下さい。」
あたしは頷き、手渡された活用表のプリントを折りたたんでポケットにしまい込み、仕事に戻るポールを見送った。
あたしはいつものように部屋に戻ってソファにゴロンと横になって渡されたプリントを眺めながら自然と笑顔になった。
これで自分のしたいことや行動が話せるようになっていくんだと思うとすごく嬉しかった。
フランスでずっと暮らしていくなら話せた方がいいはずだもん。
シャルルとずっとパリで暮らすなら…。
最初はシャルルが驚くかもって始めた勉強だけど、一つずつ何かを覚えていく度にシャルルに近づけた様な気がして嬉しかった。
だけど日が経つにつれてシャルルとの距離が変わらない焦りのような物があたしの中に芽生え始めていた。
あたしがシャルルに会いに来てから一ヶ月が経とうとしていた。
あの日、突然訪ねて来たにもかかわらずシャルルはあたしを受け入れてくれた。
だけどね、その…まだなのよ。
もしかして…シャルルは結婚するまで純潔を守ろうとしているとか?
いわゆるプラトニックな恋愛傾向なのかしら?
それともあたしとの未来までは考えてないのかもしれない。そう考えると同室じゃないのも今だに何もないのもわかる気がしていた。
もちろんキスはするわよ。
だけど十代のあの頃とは違う。
やっぱり何もないのは不安になる。
あたしはここに居てもいいのかしら?
つづく