「待ってくれ、マリナ!」
振り返ると裸足のままで部屋の前で立ち尽くす和矢がいた。黒い瞳には深い後悔と悲しみが広がっていた。
マリナは振り返らず、足を止めただけだった。
「もうあんなことしない。だから行かないでくれ」
マリナの中にまだ迷いがあるのか、オレはそれを見定めようと静かに見守った。
一度の暴力でも関係を終える恋人はたしかに多い。しかし何度も繰り返す者たちも少なくないのも事実だ。
もうしない、二度とやらないからと反省を口にし、優しい言葉をかけるのはDVの典型だ。
好きという感情は時に判断を狂わせる。愛する人間からの暴力に恐怖を感じながらも、つい許してしまうのだ。
「お前のことが好きなんだ。シャルルとのことは忘れる。二度と責めたりしない。一生大切にする。だから戻ってきてくれ」
和矢はマリナの背中に向けて言葉を続けた。
そもそもオレは責められるような覚えはない。だが、今ここでオレが口を出すべきではない。
ふと隣にいるマリナの指先がオレの手に触れた。跳ねるようにその手はすぐに離れていった。
後悔はさせたくない。
オレと行くか、和矢と残るか。
いつかの状況とは違うが、これで今後のオレ達の関係は決まるだろう。
和矢と残るというなら、オレはもう二度と日本へ来ることはないだろう。
忘れられないのだから離れるしかない。
もう監視は打ち切ろう。
ただ遠くからマリナの幸せを願うだけだ。
和矢はいい奴だ。
人は過ちを悔い改めることができる。
和矢はそれができる人間だ。
ただ、今回の件も母親との事が関係しているのかもしれない。
和矢の母親は己の夢を追って和矢を捨てたようなものだ。和矢の意識とは関係なく、それがトラウマとなりDVを繰り返すことになる可能性は捨てきれない。
母親の裏切りに傷ついた心は恋人への支配や暴力という形で現れる事は少なくない。
しかし、和矢がそうだとは言い切れない。
「迷いがあるのは当然だ。君がいいと思う方を選べばいい。オレはその判断に従うよ。ただし、残るのなら幸せになることが絶対条件だ」
それでもマリナが幸せならと、一度は夢見たマリナとの生活だったが諦めるしかない。
するとマリナはオレの手をぎゅっと握ってきた。その手は力強く、驚いてマリナを見た。
そこには優しい目をしたマリナがいた。
「残る方の条件だけ出すとか、なんで?どうして自分のことは後回しなのよ。こういう時は、いいからオレについて来いって言うものよ」
少し怒ったような口調で言うとマリナは和矢を振り返った。
「あたしは、ぶたれたから出ていくわけじゃない。やっぱりあたしはシャルルが好きだって気づいたの。あたし、自分の気持ちに嘘はつきたくない。だから和矢とはもう一緒にいられない。なかなか言い出せなくてごめんなさい。和矢はあたしの初恋だった。でも恋は恋でしかなかったの。だけどシャルルはあたしの事ばっかりで……」
マリナがオレを見上げ、目を細めながら仕方ないって顔をした。
「シャルルはどんなあたしでも受け入れてくれるの。あたしはそんなシャルルを愛おしいと思ってる。あたしがシャルルを幸せにしてあげたいって思ったの」
その言葉にオレの心は震えた。
マリナがオレを幸せに……そこまで思っていてくれてたのか。
オレの人生にまだこんな幸福な瞬間が残っているとは思っていなかった。
「俺だってお前のこと大事にしたいと思ってる!」
和矢は声を荒げた。
不穏な空気を感じてオレはマリナの前に一歩出た。
「マリナを大切に思うのであれば、手を上げるんじゃなく、信じてやるべきだったんだ。たとえそれが困難な状況でもな」
マリナがオレを選んでくれた以上、ここに留まる理由はもうない。
「マリナはバイトを口実にお前と会っていたんだぞ。それでも信じろって言うのか?!」
「そうだ!」
オレの肯定に和矢は力を失ったようにその場に崩れた。
「何だよ、シャルル。その無償の愛みたいなやつ……そんなのに勝てるわけないじゃん」
「行こう」
マリナを促し、その場を後にした。
無償なんかではない。
オレは永遠の虚無の中からマリナに救われたんだ。
つづく