きらのブログ

まんが家マリナシリーズの二次創作サイトです。

いつかの君を忘れない 25

屋敷までの帰り道、これからの事を二人で話した。すぐに結婚をするわけではないが、一度日本へ行き、マリナの両親と話をしなければならない。
結婚を認めてもらえるまでパリには戻らない覚悟でオレは日本へ行くつもりだ。


「あたしも一緒に行くわよ」


「君をジェットに乗せるわけにはいかない。外傷後ストレス障害が心配だからね」


「でも、心配だわ」


「大丈夫。必ず君のご両親を説得してみせるから」


するとマリナがポツリと言った。


「そうじゃなくて、留守番は嫌よ」


寂しいと思ってくれるようにまでなったのかと少し浮かれた。


「すぐに帰ってくるよ。電話も毎日する」


するとマリナは小さな声で言った。


「そうじゃなくて、もしシャルルの乗った飛行機に何かあったらって考えたら怖いの。シャルルに何かあったら、あたし……」


そうか。
たとえマリナ自身が乗らなくても不安に感じてしまうのか。
後遺症とまでは言わないが、根深さに胸が痛んだ。


「事故がゼロとは言い切れ……」


「お願い。一人で残りたくない。行くなら一緒じゃないとあたし……」


「マリナ?」


呼吸が苦しそうだ。
ストレス障害か?
急いで車を路肩に停め、マリナのシートベルトを外した。
車で話すべきではなかったか。


「落ち着いて、マリナ。大丈夫、わかった。一人で行くのはやめるよ」


肩で苦しそうに息をしていたマリナがオレを見つめた。


「本当に?」


「あぁ。ごめん。君の気持ちをもっとよく考えるべきだった」


するとマリナはほっとした顔を見せ、次第に呼吸が整い始めた。
オレがマリナを失いたくないと思う気持ちと同じなんだと改めて胸が詰まる思いがした。
だとすると日本へ行かないという選択肢はない以上、二人で行くしかない。


「船じゃだめなの?」


「船か……。片道だけで数日はかかる。それならプライベートジェットに脱出用の装備を積む方が現実的かな」


「装備って?」


「パラシュートとボート、酸素ボンベ、それから食料か」


ジェット機にはなんで全員分のパラシュートを積んでないんだろう。そしたらみんな助かるのに」


怖がらせないように慎重にオレは言葉を選ぶ。


「理由は三つ。一つは乗客がパニックの中でパラシュートを一人で装着するのが困難な上に、訓練を受けていないため。二つ目はジェットの高度だ。スカイダイビングなどとは段違いに酸素が薄い高さを飛行している。たとえ装着して飛び降りたとしても直後に低酸素症で意識不明となる。それを回避するには酸素ボンベが必須だがこれも乗客が装着できるか疑問だ。そして三つ目がジェット機には飛び降りるための設備がないことと速度だ。乗降扉から飛び降りた場合、翼や機体に当たって命を落とす危険がある。軍用機などは専用のスロープがあるから可能だが民間機ではないだろうからね」


「だったらプライベートジェットに装備を積んでもだめじゃない?あたしパラシュートなんてやったことないもの」


「パラシュートはプロと二人一組で飛ぶタンデムフライトがある。オレがAライセンスを持っているからマリナが少し練習すれば問題ない。酸素ボンベに関してもオレが扱えるから大丈夫。そして最後のジェットの設備だがアルディ家所有のジェットにはスロープが装備されている物がある。それを使えばいい。旅客機よりも低い高度を飛ぶから速度も問題ないだろうしね。無線も持っていけば救助要請も可能だ」


「シャルル、あんたってすごいわ。あたしの不安を一気に全部取っ払っちゃうなんて」


「お褒めに預かり光栄だよ」


「そしたら君のパラシュートの訓練が終わったら一緒に日本に行くことにしよう」


不安が消えたわけではない。
それでもオレがそばにいれさえすれば何とでもなる。
あの日とは違う。

 


つづく

 

 

いつかの君を忘れない 24

マリナは退行催眠のことを言っているのか。言いたいことはわかるがミシェルの場合、この方法は使えない。


「退行催眠の中にインナーチャイルド療法というものはたしかに存在するが、それは患者の幼少期のトラウマなどにアクセスし、当時の心の痛みを癒し、現在の不安や苦痛を取り除くといったことが目的なんだ。ミシェルのような過去の恨みや妬みといった感情を消せるものではないんだよ。催眠療法は魔法ではないからね。ミシェルがこちらに危害を加えないという確証がなければ実現するのは難しいかな」

「そう……」


マリナはミシェルのことも覚えていない。
どれほど巧妙にオレを陥れたかも詳細は知らない。
だが、こうして絵を見るのとオレ達を目の前にするのは違うかもしれない。
ミシェルに会わせてみるのも有りか。
いや、ミシェルが何か仕掛けてくる可能性がある。
危険を冒してまで会わせる必要はない。
すぐさまオレは考えを打ち消した。
マリナはがっかりした様子だったが、ミシェルとの事は一朝一夕にはいかない。
気を取り直してオレは先を促した。


「そろそろシャンボールへ行こうか?」


「うん」


車を走らせ、シャンボール城近くのレストランで昼食をとった。
マリナは料理が運ばれてくる度に目を輝かせた。


「お屋敷のお料理も最高だけど、外で食べるのもいいわね」


テラス席を予約しておいて正解だったようだ。
今回はマリナの記憶を辿る旅ではない。
それでもどこかで期待している自分がいた。
シャンボール城に入るとすぐに二重螺旋階段が目につく。
マリナが階段を見上げた。
オレは息を潜めてマリナの様子を見守った。


「これってどこまで続いているの?」


「三階のバルコニーまで行けるよ。二重螺旋階段になっていて登る人と降りる人がすれ違わない設計になっているんだ。世界的にも有名なダヴィンチが設計したと言われている」


「それ、日本にもない?小学校の修学旅行で行ったような気がする。お堂みたいなやつ」


「それなら円通三匝堂、通称さざえ堂かな。当時の木造建築ではとても珍しい物で国の重要文化財にもなっているはずだよ」


「そんな名前だったかも」


そういうと特に変わった様子もなくマリナは階段を上り始めた。
二階の踊り場に差し掛かった時、マリナは足を止め、廊下の先に視線を向けた。
オレは静かにその様子を見守った。


「部屋数がすごいわね!」


その言葉に落胆しなかったと言ったら嘘になる。覚悟はしていたが現実は厳しかった。
おそらくマリナの記憶はシナプスの回路自体が途切れてしまっているのだろう。


「部屋数は全部で426部屋ある。この辺りでは最大規模の城だよ」


「そうなの?だったら全部見てたら夜になっちゃうわね。急ぎましょ!」


途端にペースを上げてマリナは階段を上って行った。
ふとオレは振り返った。
二度と訪れることはないであろう、その場所を一人静かに目に焼きつけた。


「シャルル、何してるの?早く」


マリナの呼びかけにオレは過去を胸の奥へとしまい込んだ。


「今、行く」


オレ達には未来がある。
それでいい。

 


三階のバルコニーからは見事なフランス式庭園が一望できた。
マリナは観光客に混じって、庭園を見ながら城の外壁に施された見事な彫刻を見上げている。


「本当に素敵ね」


「ずいぶんと気に入ったみたいだね」


「だってお城って憧れるじゃない」


「だったら君のために買おうか?」


するとマリナは顔を引き攣らせてまじめに答えた。


「え?いいわよ。夜になったら何か出そうだもの」


そんなマリナが可愛らしく思わず笑みが溢れた。


「ごめん、冗談だよ。買いたくても国の所有だから売ってくれないからね」


「シャルルなら本当に買いそうで怖いわ」


「でもこれだけは言える」


あの時のことを思い出す。


「何もかも、君にやる。この世界中でオレが手にできる全部を君に。これは本当だ」


するとマリナの瞳に涙が溢れた。


「ごめんね。こんなに想ってくれてるのにあたし……」


オレはハンカチを差し出した。


「君を泣かせるつもりで言ったわけじゃない。前にも言っただろう?君が居てくれるだけでいいと」


するとマリナはオレに一歩近づき、オレの胸に寄り添うように頭を預けてきた。


「好きよ、シャルル」


「本当に?」


オレは不意を突かれ、声が掠れた。


「本当よ」


その瞬間、オレを見上げるマリナの体をきつく抱きしめた。


「マリナ……マリナ……!」


「待って。シャル……ル、人が見てるわ」


「見させておけばいい」


たとえ記憶がなくなっても君は何度でもオレに恋をする。
予言めいたことを口にした。
あれは自分への慰めでもあった。
それが現実となった。
この場所はたった今、新たなオレ達の思い出の地となった。

 

 


つづく

いつかの君を忘れない 23

あの日から五ヶ月。 
オレにとってマリナが一番大切なんだと彼女に伝えてから穏やかな日々が続いた。


「シャルル、これどうかな?」


「いいんじゃないか?」


「ねぇ、適当に言ってない?!」


「マリナは何でも似合うよ」


一日時間が取れたから今日はマリナを連れてロアールへ行くことになった。
マリナが母の暮らしていた館を見たいと言い出したからだ。


「ロアールの館は閉鎖されてずいぶん経っている。月に一度管理人が清掃に入ってはいるが、本当に何もないけどいいの?」


「うん。だってシャルルのお母さんが描いたっていう絵を見てみたいの。そこを見たら近くの美味しいレストランにでも連れて行ってくれるんでしょ?」


白の花柄ワンピースを鏡の前で合わせながら、こっちを振り返るマリナ。
相変わらず記憶は失くしたままだが、オレをシャルルと呼び、こうして話す姿は以前と変わらない。
五ヶ月分の思い出もできた。
その積み重ねでも十分だと思っている。
マリナがそばにいるだけで、生きていてくれるだけでいい。


「少し足を伸ばしてシャンボール城近くまで行けばいい店があるからそこへ行こうか」


以前、マリナと行こうとしていた所だ。


「そのお城も時間があったら見たいわ」


「そうだね」


あそこはオレにとって特別な場所だ。
理性を超え、無我夢中で手すりを越えていた。あんな経験は生きてきた中で一度もなかった。痛みよりも心が震えたことを今でも忘れはしない。
マリナが虚無の中からオレを救ってくれたのだ。


「着替えてくるわね」


そう言うとマリナはクローゼットへと消えていった。
程なくして着替えを終えたマリナが姿を見せた。膝丈のワンピースから覗かせた白い足に、つい目を奪われる。
すぐに視線を逸らした。
まだマリナとは体を重ねたことはない。
オレに好意を向け始めてくれているとは思うが、そういった関係になれるほどマリナの気持ちは到達していない。
二週間前、オレの部屋の隣に用意していたマリナ専用の部屋を使うかと尋ねたら彼女はありがとうと言って喜んでくれた。


「でも隣だと送ってもらう必要もなくなるわね」


何だかマリナが寂しそうに見えた。


「たとえ隣でも送らせてもらうよ。もちろん、おやすみのキスも忘れない」


部屋に送り届け、額にキスを落とす。
それが日課となっていた。
マリナの口から愛を告げられる日までは柔らかな唇もオレの中で封印していた。
オレの一方的な愛にマリナが溺れてしまわぬよう、時間をかけ、ゆっくりと想いを伝えていく。
焦る必要などない。
必ずまたマリナはオレに恋をする。


「できたわ」


髪をハーフアップにしたマリナも新鮮だった。最近バリエーションが増えてきたようだ。


「では行こうか」


オレ達の訪問は伝えてあった。
門扉は長年の封鎖を解き、開放されていた。
幼少期には月に一度、そして母が亡くなって以降は足を運ぶことはなかった。
それが和矢とマリナによって数年ぶりに扉は開かれた。
オレはミシェルとの決着がついた後に一度だけここを訪れた。そしてあの部屋へ入るのは今日が二度目だ。
真っ直ぐに伸びた廊下の先、ちょうど突き当たりが母の秘密の部屋だ。
部屋の鍵は母が死ぬ時まで身につけていたと聞いた。
鍵穴へと差し込み、ゆっくりと回すとガチャっと重たい音がした。
母が恋しかった頃の想いがふと蘇り、扉の向こうに母の笑顔が待っているような気がした。
ドアノブに手を掛け、そっとそれを開いた。
しんと静まり返った部屋はふわりと優しい香りがした。オレのすぐ後に続いてマリナも中へと入った。
すると足を止め、正面の壁に掛けられた大きな肖像画にマリナは立ち尽くした。


「タイトルは『私の夢』前に話したミシェルとそしてオレを描いた物だ。母がどんな思いでこれを描いていたかと思うと今も胸が痛む」


マリナはしばらく絵を見つめ、それから部屋全体をゆっくりと見渡した。


「シャルルのお母さんの夢そのものがこの部屋に詰まっているのね」


「あぁ。オレ達が共に生きるという選択肢はなかったのかと今でも思うよ」


「シャルルがお父さんの立場だったらどうしていた?」


マリナの問いにオレは迷いなく答えた。


「父は臆病過ぎたんだ。結果的に争いは避けられなかった。共に過ごしていたら、あるいはあんな争いにはならなかったかもしれない。どこかを捻じ曲げれば、必ずどこかで歪みが起きる。それなら共に過ごした結果に対応する方を選ぶかな」


マリナは再び母の絵を見つめて言った。


「ミシェルは今どうしているの?」


「資格喪失者として孤島で暮らしているよ」


「もうミシェルに資格がないなら一緒に暮らせないの?」


「一度捻じ曲げてしまった物は元には戻らない。せめて母の生きている間に何かしてやりたかった。7歳の子供には到底無理だけどね。せめてもう少し長く生きていてくれたらと今でも思うよ」


するとマリナがオレの手をそっと握りしめた。


「でもミシェルは生きてるんでしょ?だったら少し捻じ曲がってしまったかもしれないけど、お母さんの夢、叶えてあげられるのはシャルルだけだと思う」


「ミシェルはそんなこと望んでないよ」


するとマリナは首を横に振った。


「ミシェルが、じゃなくてシャルルが、よ。このまま何もしなかったら、ずっと変わらないわ。お母さんの夢も、シャルル、あんたのその痛みも」


母の夢、そしてオレの……。
マリナの言葉がじわじわとオレの心に広がっていく。
一度壊れた関係を修復できるとは思えない。取り戻せはしないとオレ自身も諦めていた。
だけどマリナは母の夢に対してオレが何をするかが大事だと言っているんだ。
気持ちはわかるが、それでも。


「ミシェルは危険すぎる。オレと同等の頭脳を持つ。おそらくアルディ家の足元を掬うことになる。自分にこんな運命を負わせた一族を放ってはおかないだろう」


「だったらその運命とやらを変えてあげればいいじゃない。大体、孤島なんかに閉じ込めてたりするから性格がひん曲がっちまうのよ。そんなのあたしが叩き直してやるわよ」


マリナの気持ちは有り難いが、ミシェルをそばに置くことは現実的ではない。
マリナに何かあってからでは遅い。脅威となり得る者を近くに置くことはできない。


「残念だがミシェルはオレに最大の苦しみをと考えるだろうな。人格形成は3歳ごろから始まり、基礎的な価値観は10歳には確立する。過去に行くことは現代科学では不可能だ。君に危険が及ぶ可能性がある以上、それはできない」


もう二度とあんな思いはしたくない。
マリナはオレが守る。
これだけは譲れない。


「それなら小さなミシェルに教えてあげればいいじゃない」


つづく

 

いつかの君を忘れない 22

「マリナ?」

「どうして送るなんて言うのよ」

再会以来、マリナがこんな風に気持ちをぶつけてくるのは初めてだ。
どこか他人行儀で、距離を感じていたが仕方がないと割り切っていた。
でも今のマリナは本来の彼女に近い。

「一人で帰らせたくないからだよ」

「だから、どうして?」

「君が大切だからだ。部屋までの安全をこの目で確認したいのと、一人で帰らせるような野暮なことはしたくないからだ」

正直な気持ちだった。
マリナはそんなことは望んでいないだろうが、一人寂しく帰らせたくなどなかった。

「嘘よ」

「なぜそう思う?」


マリナの中のオレへの不信の原因は何だ?
だがオレの問いにマリナは何も答えようとしない。
唇を引き結び、感情を抑えている様子は明らかにオレに何かを訴えかけている。


「マリナ?」


「記憶の戻らないあたしはもういいんでしょ?」


マリナは視線を外したまま、目を合わせようとしない。


「君の記憶がどうであれ、君が大切なことに変わりはない」


「嘘よ、だって……」


マリナはそこで一旦言葉を止めた。
それから意を決したように続けた。


「婚約者を探してるんでしょ?メイドさん達が言ってたわ。それにあの紙……」


マリナの視線の先にはテーブルに置かれた一枚の紙があった。
それでマリナはオレが見限ったとでも思ったのか。メイドの間で噂されるほど大っぴらに婚約の話が進んでいたとは思わなかった。


「婚約者候補のリストか。あれはルパートが勝手に持ってきた。オレは全く興味ない」

慎重に言葉を選び、事実を伝えた。


「でもずっとどこかに行ってたでしょ?メイドさん達の話を聞いた時、ピンと来たわ。それに今日だって。夕食はここで取ったんでしょ?」


残されたままの食器にマリナの視線が向けられた。


「マルクからここを出て行くと聞いた時、君を連れて行くんじゃないかと思ったんだ。そんな話は聞きたくもない。だから君達を避けていた」


「あたしがマルクと?何で?」


この反応からするとマルクとのことはただの杞憂だったと察した。
マリナ本来の人懐こさだっただけということか。


「二人が一緒にいる所を何度か見かけた。それでオレも覚悟を決めなければいけないと思っていた。それでもどうしても決心がつかなかった。それで部屋に運ばせた」


「それじゃ……記憶が戻らないあたしに痺れを切らしたってわけじゃないの?」

拍子抜けしたような顔のマリナを見てオレの胸はざわついた。


「そんなことはあり得ない。君の記憶がないのも元はと言えばオレのせいだ」

「話があるって呼ばれたから、あたしはてっきり……。マルクもここを出ていくみたいだし。だからあたしもそろそろ日本に帰れって言われるのかなって」


マリナの中でもある仮説が成立していたというわけか。たしかにオレが婚約者を探し、マリナをここへ呼び出したとしたら見限られたと思うのも仕方ない。
でもその根源となるのは失望や嫉妬からだ。


「オレ達は互いに邪推し過ぎていたわけか」


「だってマルクが治るまでは居てもいいって言ってたから」


確かにマリナに聞かれてそうは答えたが。


「だからずっと早く思い出さなきゃって、でも全然思い出せなくて、そしたらシャルルさんは婚約者を探し始めてるみたいだし、だから帰らないとだめなのかって思って、そしたら急に悲しくなって……あれ、あたし……涙なんてどうしちゃったんだろ」


オレ達の間に僅かな歪みが生じていたんだ。それは少しずつだが確実に分岐し、ここまで来てしまっていたのか。
一筋の涙がマリナの頬を伝った。
これまで抑え込んでいた感情を口にしたことでマリナの中で眠っていた思いが表に出てきたのかもしれない。


「君の中にある失われた記憶が君の感情を揺さぶったのだろう。あのリストを見たことで無意識のうちに君は嫉妬し、オレに失望したんだ」


オレは涙で濡れたマリナの頬をそっと手で拭ってやる。


「無意識に嫉妬……?」


「そう。今だってオレが触れてもあの時みたいに逃げ出さそうとは思わなかっただろう?」


「だってあの時は知らない人にいきなり抱きしめられて驚いたのよ」


「じゃあ、今は?」


「今?」


「そう、今は知ってる人だよ」


マリナを見つめ、一歩近づいた。


「近すぎて恥ずかしいわ」


「それも新たな感情だろう?あの時の君はそんな風に思うなんて思ってもいなかったはずだ。失った記憶は戻らないかもしれない。だが、想いは何度でも通じ合えるはずだ。これまでもそうだったようにね。必ずオレが君に恋をさせてみせる。何度でもだ」


「あたしは今のままでもいいの?」


「もちろんだ」

 

 


つづく

 

 

いつかの君を忘れない 21

「荒んでいるな」 


テーブルの上にチラッと目をやるとルパートは白い封筒をオレに差し出した。


「何だ?」


「ラグノス達が騒ぎ出してる」


ラグノスというのはルパートの兄。つまりオレの叔父で親族会副議長だ。
封筒の中には数枚の写真。
取り出した瞬間、ルパートが何を言いに来たのかは想像できた。


「庶民というだけでもこちらは譲歩していたが、お手付きとあらば、もうあの話は白紙にしろと」


「ずいぶんとタイミング良く撮ったな」


オレは写真を突き返した。


「ラグノスとマルクに接点はない。諦めてこの中から選ぶんだな」


そういうとルパートは胸ポケットから一枚の紙を取り出し、オレの前に広げて見せた。
そこには3人の写真と名前、家柄と年齢が一覧で並んでいた。


「冗談」


オレはその紙を払った。


「親族会議で勝手に決めてもいいのか?」


「結婚はしないと言ったはずだ」


「お前は直系を絶やすことは許されない。だからあの女でもいいと我々は渋々認めたんだ。こうなった以上、お前に選択肢はない。今秋に婚約、春には結婚してもらうことになった」


「何か急ぐ理由でもできたか?」


「ラグノス達も暇なのだろう」


「そんなことでか?」


探り合いの中で自嘲的にルパートが笑った。


「ラグノスは保守的な人間だ。再びミシェルを利用しようとする輩が現れたらまずいと考えているのだろう」


「マルグリット島から出られるとでも?」


「何が起こるかはわからないからな」


視線がぶつかり、心理的攻防が続いた。
ミシェルの名を出して来たのはルパートのただの牽制だろう。
だが、マリナのことでオレが結婚を考え直したこの機会を逃すまいとした親族会の動きが活発になったのは明らかだ。
あわよくばマリナではない、良家との縁談を考えたのだろう。


「ミシェルが来たらまた勝利すれば良いだけだ。用はそれだけか?なら帰ってくれないか」


「まぁ、目を通しておくことだな」


そういうとルパートは手にしていたリストをテーブルに置き、チラッと腕時計を見た。


「残り1分4秒。本人にはお前が呼んでいたと伝えてある。最後に思い出でも作ればいい」


「どういう意味だ?」


「マルクより先にあの女を抱いて、さっぱり忘れろという意味だ」


言葉よりも先にオレの拳がルパートの左頬を掠めた。


「私と渡り合えると思っているのか?」


「なら、試してみるか?!」


再び拳を固めた瞬間、背後でノック音が響き渡った。


「入れ」


オレが言うより先にルパートは平然と答えるとオレからさっと離れた。
カチャっとドアが開き、オレ達を見てマリナがぺこっと頭を下げた。


「あの、こんばんは」


その隙にルパートはオレの肩を軽く叩き、


「せっかくだ」


小さくそう言うと踵を返し、逃げるように部屋を出て行った。


「あの……」


出て行くルパートを睨みながら、ドアの前で戸惑っているマリナに声をかけた。


「入っておいで」


「話の途中みたいだったけど、来るのが早すぎた?」


マリナは振り返り、出て行ったルパートを気にする素振りを見せた。


「大丈夫。ちょうど済んだところだ」


「それなら良かった。ところで話って?」


ルパートの思惑を悟られないようにオレは当たり障りのない話をした。


「だいぶ屋敷を開けていたから君の様子が気になっただけだよ」


マリナがチラッとテーブルに目をやった。


「そう……。特に変わりはないわ」


そうは言ってるが明らかにマリナの様子はおかしい。
やはりマルクのことで何かあるのか。


「それなら良かった。もう遅いから部屋まで送るよ」


このまま二人で居たら食堂に行かずに私室で夕食を取った意味がなくなる。
早々に切り上げようとオレは帰ることを促した。


「そう……。あたしなら大丈夫。一人で戻れるわ」


歩き出すマリナの背中を慌てて追いかけた。


「そうはいかないよ」


屋敷の中だ。
何かあるわけではないが、一人で帰らせるような真似はしたくない。
たとえ今のマリナがオレを忘れているとしてもオレにとって大切な存在なのは変わらない。


「どうして?」


振り返ったマリナは今にも泣き出しそうな顔でオレを見た。

 

 

 

 
つづく

いつかの君を忘れない 20

「どうして辞めたいだなんて」
 


ジルは驚きを隠せない様子だった。


「怪我が理由とは言っていた」


「やはり後遺症が?」


「いや、おそらく残らないはずだ。リハビリの様子を聞いた限りではな」


「それで何と答えたのですか?」


「本人の意志を尊重した。理由は他にあるにせよ、だ」


「マリナさん、ですか?」


「おそらくな。週末にはここを出て行くと言っていた」


「すみません。私が二人をここへ連れて来たらなんて言ったばかりに……」


ジルは後悔を口にした。


「君に言われずともオレは二人を連れて来るつもりだった。気にするな」


「マリナさんはこの話を知っているのでしょうか?」


「どうだろうな」


すでに二人の間では話がまとまっているのかもしれない。
マルクはマリナを連れてここを出て行くつもりなのだろうか。
マリナもそれを望んだというのか。
結局、困難を乗り越えた先に芽生えたのは友情ではなく、愛情だったということか。
二人の関係を見極める意味でアルディへ連れては来たが、こんな結果になるとはな。
マリナのオレに対する思いはそれまでだったというだけのことだ。
それならマリナの望み通りにしてやるしかない。
それがマリナにとっての幸せなら。
この先、記憶が戻るという保証はどこにもない。
それならいつまでもここに留めておくわけにもいかない。
ここまでか……。
ただ、もしマリナが後に記憶を取り戻した時はどうなる?
マリナは自分の選択を後悔しないだろうか。

 


***


夕食は私室に運ぶようにと伝えた。
二人に会う可能性があるからだ。
まだオレの中で迷いがあった。


ほどなくしてスザンヌがワゴンを引くメイドと共に現れた。


「それではシャルル様、ご用意させて頂きますね」


スザンヌは幼少期からオレの食事を担当する古参のメイドだ。
スザンヌの合図でメイドは手際よくクロスを掛け、料理を並べ始めた。
前菜、スープ、魚料理とテーブルが埋まっていく。


「シェフにはワインと生ハムのブッラータだけで良いと言ったはずだが」


「それだけでは体に良くないと思い、勝手ながら私がシェフに頼んでおきました。研究所では偏った食事をされていたのではありませんか?」


栄養士として長年に渡ってオレの食を担当してきたスザンヌは、長期で屋敷を空けると、こうして色々な物をオレに食べさせようとする。


「悪いがあまり食欲がない」


「ではせめてスープとブッラータをお召し上がり下さい」


「ワインにスープか?」


だが、オレの問いにスザンヌは怯むことなく頷いた。


「セロリの野菜スープは必ずですよ」


セロリに含まれるアピインやセネリンは精神を落ち着かせる鎮静作用がある。
今のオレの状態を良く把握している的確なメニューを入れてきたな。
しかもスープなら食欲がない時でも入りやすい。さすがは長年オレを見てきたメイドだけある。


「わかった。スープは頂こう」


「ありがとうございます。こちらのスープをマリナ様はおかわりされてましたよ。ただ、シャルル様がお見えにならないのでがっかりされていた様子でした」


「そうか」


スザンヌの言葉は手放しで喜べるものではなかった。
マリナもオレに話があるのか。


「後はいい。下がってくれ」


「かしこまりました」


二人の退室を見ながらオレはワインを煽った。
このところ忙しくしていたせいか、すぐに眠気に襲われたオレはノック音で目を覚ました。
時計を見ると22時になろうとしているところだった。
終わったと告げなかったせいでテーブルの上の食器はそのままだった。
さすがにこんな時間だ。
スザンヌが下げに来たのか。


「入れ」

 


つづく

 

 

いつかの君を忘れない 19

この一週間、オレは時間を作ってはマリナを連れて出かけた。マリナの記憶の小箱をオレは諦めきれなかった。
ルーブル、シャンボール、そしてオルレアンにまで足を伸ばした。
それでもマリナには何の変化もなかった。
帰りの車の中でマリナがぽそりと言った。


「本当ならたくさんの思い出があったのね、きっと、あたし……」


失った物の多さを実感させるだけになってしまった。
何か一つでもマリナの心に刺さるものはないかと必死になった結果がこれか。


「辛い思いをさせただけになってしまってすまない」


「ううん、何も思い出せなかったけど、色々見られて楽しかったわ」


こうして屋敷の門をくぐるまで車内は静かな時が過ぎた。
もう限界か……。
玄関口に車を停め、助手席へと回り込んでドアを開けた。
初めの頃はオレのエスコートに戸惑っていたマリナも、最近では慣れてきたはずなのだが、いつまでも降りてこない。


「気分でも悪くなった?」


心配して覗き込むと、マリナは俯いてしまった。


「……あたし、ここにいてもいいの?」


攻める方向性は違えど、マリナも同じことを考えていたのか。


「なぜ?」


気負わせないようにと、手を差し出すとマリナはオレの手を取って車から降りた。


「今のあたしはシャルルさんの知ってるあたしじゃないんでしょ?だから、ここに居てもいいのかなって」


寂しげに言ったマリナが愛おしく、オレは堪らずに抱きしめた。
腕の中でマリナが小さく震えたのがわかった。オレは腕を解き、代わりに頭をポンと撫でた。


「好きなだけ居てくれていいんだよ」


できることならこのまま永遠にそばにいてほしい。


「マルクが治るまでは居てもいい?」


そうだ。
初めからマルクの回復を見届けるために日本には帰らないとマリナは言っていた。
平行線どころじゃない。
やはり交点など見つけようがないんだ。
ここまで足掻いてはみたものの、オレはマリナを手放す覚悟を再びしなければならないのかもしれない。
生きてさえいてくれたらと願ったのは本心だ。
だが、まさかこんな形で……。


「シャルルさん?」


「あぁ、マルクが治るまで居てくれて構わないよ。彼は君の恩人だからね」


マリナに言うというよりは自分自身に言い聞かせているようだった。
幸福の果実の味を知ってしまった今、オレはあの時以上の苦しみに耐えられるのだろうか。


***


数日が経った。
オレは屋敷には帰らずに研究所で何度も朝を迎えた。
仕事に没頭している間は余計なことを考えずに済むからだ。
そんな中でもオレの中で答えはすでに出ていた。
今日はジルからの呼び出しでやむなくオレはアルディに戻ることにした。
どうやらオレとの面会を待つ人が数百に達したらしく、手を持て余し始めたようだった。
昼から夕方にかけ、数十人を相手に面会を済ませた。チェスだの乗馬だのと構っている場合ではない。
今日はお開きにしようと最後の面会者を見送り、椅子の背にもたれかかった瞬間、ノック音が聞こえてきた。
今日は終いだと伝えたはずだが、ずいぶん待たせたこともあり、仕方なくオレは入室を許した。
すると現れたのは松葉杖をついたマルクだった。


「シャルル様、少しよろしいでしょうか?」


その瞬間、オレの心がざわついた。

 


つづく