まさか、マリナは記憶が……。呆然とするオレを見てマルクが言った。
「マリナ様、その方が以前お話しした……」
マルクは一瞬、躊躇し、それから言葉を続けた。
「シャルル様です」
「この人が?ゴホッ……ゴホッ」
生きていた。
マリナが生きていた。
生き延びてくれていた!
だが……!
「マルク、詳しく話せ」
聞けばマリナは大きな怪我はないものの、オレに関する記憶がすっぽりと抜け落ちているとのことだった。
なぜ事故機に乗っていたのか、自分はどこへ行くつもりだったのか、忘れてしまっているのだと。
事故のショックによる一時的な健忘症か、あるいはこのまま、ずっと戻らないのか。
幸い、マリナは顔や手に多少のすり傷は見られたが大きな損傷は見られない。
とにかく救助ヘリをこちらに向かわせるように手配をし、その場でマルクの状態を確認した。
太ももが腫れて変色し始めている。
おそらく右大腿骨遠位部骨折だ。
この様子だとかなりの痛みだろう。
すぐにでも鎮痛剤を打ってやらなければ。
それに腹部強打による内臓の損傷の疑いがあった。
こちらも一刻も早く検査をする必要がある。
「マルクは大丈夫なの?」
マリナが心配した様子でオレに聞いてきた。
「命に別状はない。ヘリで病院まで運んで詳しく調べてからじゃないとわからないが」
「良かった、ゴホッ……ゴホッ」
さっきからマリナの咳が気になるな。
「風邪か?少しいいか?」
オレはマリナの額に手を当てた。
熱はなさそうだ。
次に脈を診た。
こちらも問題なさそうだ。
「あんた医者なの?」
「そうだよ」
生きてさえいてくれたらと何度も、何度も願った。
たとえどんな形でも……そう願ったが、まさかこんな形で再会することになるとは。
それでもこうして目の前にマリナは存在する。
今は、それだけでいい。
「早く、ゴホッ……マルクを、ゴホッ……助けてあげて」
「わかった。それより君のその咳はいつから?」
「さっきまでゴホッゴホッ……平気、ゴホッ……だったんだけど、ゴホッ……」
なぜ、突然?
ふとマリナがここへ戻ってきた時に言ってた言葉を思い出した。
「さっき、君はリスに噛まれたと言ってたね?どこ?見せて」
するとマリナは右の人差し指を出した。
数ミリ程度の小さな物で傷もそう深くはない。
念のため消毒は必要だが。
その時マリナの呼吸からゼーゼーと喘鳴が聞こえきた。
「ここへ来て何か変わった物を食べたか?」
「パパイ……ヤ、ゴホッ……とバ、ナナ、ゴホッゴホッ……」
「ごめん、喋らなくていい」
急性の気管支炎か?いや、発作か?
すぐに対処しなければ呼吸困難を起こす可能性もある。
その時、日本を発つ前日のマリナとの電話を思い出した。
そうか、アナフィラキシーか!
マリナは友人のハムスターを預かったと言っていた。
ハムスターは尿中のタンパク濃度が高く、排泄した尿が乾燥すると室内に飛散し、これを吸い込むことによって気管支にアレルギーが出やすい。
それでマリナは急激に咳が出始めたんだ。
あの時は軽度だったものがリスに噛まれたことにより抗体が反応し、発作を起こしたんだ。
すぐにでも気管支拡張薬を吸入させなければならない。
今は持ち合わせがないが、クルーザーまで戻ればある。
「これ、風邪、ゴホッ、ゴホッじゃないの?……ゴホッ」
「あまり喋らないで。リスに噛まれたことでアレルギー反応を起こして、気管支が狭くなっているんだ」
海岸までマリナを運び、クルーザーにある吸入薬を使えば発作は止まるが、それだと時間がかかる。
オレが一人でクルーザーまで戻る方が早いが、マリナをここへ置いていくのは危険だ。
酸素濃度が低くなれば意識を失いかねない。オレが居ない間にそんなことになったらマルクでは対処できない。
くそっ、パルスオキシメーターだけでも持ってくるべきだった。
正確な酸素濃度を知りたいところだが、ここで考えていても仕方がない。
「マルク、マリナが発作を起こしてる。クルーザーにある吸入薬が必要だ。オレはマリナを連れてクルーザーまで行ってくる。すぐに戻るからその間、待てるか?」
「はい。私は大丈夫です」
そうは答えたがマルクの額には脂汗が浮かんでいる。
急がないとまずいな。
だが、二人を同時には連れて行けない。
「マルクをここに、ゴホッ……一人で、置いて、ゴホッ……行くなら、ゴホッゴホッ。あたしはゴホッ……行かないわ!」
「マリナ、あまり時間がない。急がないと窒息する可能性もあるんだ」
「ゴホッゴホッ……マルクを一人にはゴホッ……できないわ」
たしかにマルクを一人にするのは心配ではあるが、動かすわけにもいかない。
どうする?!
とにかくマリナを説得するしかない。
「じきにヘリも到着する。そしたらマルクも病院へ向かわせる。だから今は君の治療をさせてくれ」
「でも……ゴホッゴホッ」
マルクを案ずるマリナの姿に胸がチクリとした。
「マリナ様、私は大丈夫ですから、先に行ってて下さい。発作を起こしてるならなおさら早くしないと。せっかく助かった命です。私もすぐに後を追いますから」
マルクの言葉にマリナは迷いながらも頷いた。
「わかったわ、ゴホッゴホッ……」
苦境を乗り越えた二人には、見えない絆が生まれていた。
それをまざまざと見せつけられたような気がした。
その時、外でカサカサっと音がした。
人か?いや動物か?!
緊張が走った。
ここで時間を取られるわけにはいかない。
辺りを見渡し、武器になりそうな物を探した。木の枝ぐらいしかないか。
オレはそれを持ち、外の様子を伺った。
つづく