「マリナさん、どうしたんですかっ?」
騒ぎを聞いたジルが駆けつけて来た。
あたしはあまりの悔しさに唇を噛みしめていたせいか、僅かに血が滲んでいた。
厨房内は騒然としていて誰かがジルに連絡をしたようだった。
「ジル様、申し訳ございません。」
戸惑うようにコック長がジルに話し掛けた。
「フィリップ、何があったのです?」
ジルはコック長を問いただしていく。
それからあたしの唇にハンカチを充ててくれた。
「いえ。昨夜、例の物を誤ってマリナ様が口にされたようでして。」
例の物?
こういう言い方ってお互いが知らないと言わないよね。
ジルは知っていたの?どういうこと?
まさかジルまでっ?!
でもそんなはずないわ。
ジルは誰よりもシャルルの側にいてずっとシャルルを見守ってきたんだもの。
それならどうして?
「マリナさん、私の部屋で事情をお話しします。フィリップ、仕事に戻って結構です。」
ジルの言葉でみんながそれぞれの作業に戻っていった。コック長のフィリップはあたし達に深々と頭を下げると厨房の奥へと消えていった。
あたしは何かが違うと感じ始めていた。
胸の中でモヤモヤしていた物が頭の中に紛れ込みあたしの思考を奪っていく。
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今夜もあたしはシャルルの部屋の前に立っていた。
「シャルル、入るわよ。」
シャルルはパソコンを閉じて席を立つとあたしに座るように促した。
でもあたしはその場に立ったまま首を振った。引き出しからテキストを取り出そうとしたシャルルの手が止まった。
「どうした?」
「あのね、あたしフランス語の勉強はもう辞めるわ。やっぱり難しいしここにいれば日本語だって通じるから不便ないのよね。それに勉強、飽きちゃった。」
シャルルは食い入るようにあたしを見つめている。侮蔑という名の凶器を向けられているようで胸が苦しくなる。
だけどあたしはわざとペロッと舌を出しておどけてみせた。
「本気で言ってるのか?」
シャルルは両手であたしの肩を掴み、視線を合わせると青灰色の瞳はあたしの中の真実を見つけようとしているかのように揺れて見えた。
「今日はそれだけ言いに来たの。」
あたしはそれ以上シャルルを見ていられなくて俯いた。
シャルルはため息混じりに言った。
「君は随分と飽きっぽいんだな。」
顔を上げる事が出来なかった。きっとシャルルは呆れてる。あたしはスカートの裾をギュッと握りしめ何も言えずにいた。
「君は自分が口にした言葉を全う出来ない人間のようだ。以前にもあったな。」
シャルルが何の事を言ってるのか分からなかった。
「何の事か分からないって顔だね。
そうやってフランス語の様にオレに飽きたら和矢のとこに帰るのか?」
シャルルがあの時の事を言ってるんだとやっと分かった。華麗の館であたしはシャルルに愛を告げた。それなのにあたしは小菅で和矢の手を取ってしまったんだわ。そして…パリに来た。
あたしは自分の口にした言葉を何度となく覆してきていた。シャルルに対しても、和矢に対しても…。
顔を上げるとそこには哀しげな表情のシャルルがいた。
シャルルを傷つけるつもりじゃないのにこんな顔をさせてしまった。
シャルルはあたしがいつか和矢の元へ帰るかもしれないってずっと思っていたの?
「何言ってるのよ!そんなわけないでしょっ!」
つづく