「特にマリナ様は日本の方なので発音、文法、会話と三方向を同時に進めていくのがよろしいかと思います。」
「なんで日本人だと同時にしなきゃいけないのよ?!」
あたしはブゥーっと口を尖らせた。
だって同時に三つの事をしなきゃいけないなんて大変じゃない。出来れば一つずつお願いしたいわ。
「日本の多くの方が英語をまず最初の外国語として学んでいるため英語的な考え方になっています。
例えばこれはなんと言うと思いますか?」
ポールはいつもテキストを入れているファイルからメモを一枚取り出してa.uの二文字を書いてあたしに見せた。
「これは有名じゃない。さすがのあたしでも知ってるわよ。
エー○ーでしょ?あたしは持ってはいなかったけど日本の携帯会社よ。
もうポールったらバカにしないでよねー!」
ポールはそうではないと静かに首を振った。
「いえ、決してバカになどしていません。ただ、これは複母音字といってフランス語ではa.uは『オ』と発音します。そして『e』はエと言いたいところですが『ウ』なんです。
これが最初の壁です。
最初に学習した英語が知らぬ間に混乱を招くのです。ですから会話だけというわけにはいかないのです。」
そう言われてみれば思い当たらない訳でもなかった。
確かにそうかもしれない。
フランス語のアルファベットって未だに慣れないのよね。どうしてもあのキラキラ星の歌にのせて覚えたABCD…がチラついて邪魔をする。
『ア べ セ デ ウ エフ…』
たしかに微妙に似てるわね。
書き取りの時に「ウーエル」って言われてもまだ咄嗟には反応できない。
時間をかければそれが「er」だって事は分かるんだけどね。
「分かったわ。こうなったらやるしかないわね!」
あたしはさっそく腕を捲り上げてプリントと睨めっこ。そこには日本語の文章が書かれてあってその下にフランス語を書き込むスペースがある。
あたしがペンを手にした途端、ポールの携帯が鳴りだした。
向かい側に座っていたポールはスーツの胸ポケットから携帯を取り出して画面を確認すると申し訳なさそうに言った。
「マリナ様、申し訳ありません。この練習問題をしながら少しだけお待ちください。」
そしてポールは流暢なフランス語でやりとりしながら足早に部屋を出て行った。
仕事の合間にフランス語を教えてもらっているからたまにこうやってポールには仕事の電話が入る事があるの。
置かれたプリントに目をやると動詞の活用問題と書かれていた。
【私はフランス語を話す。】
【あなたはフランス語を話す。】
【彼はフランス語を話す。】
「最初はJe …なんだっけ?
えーと、えーと。人称によって変わるのは分かるけどどう変わるんだっけ?
っていうか、どうしてフランス語が話せないあたしにこの問題なのよ。まったくポールってセンスがないわね。」
どんなに考えても思い出せない動詞の袋小路にあたしは迷い込んでしまった。せめて最初の一文字だけでも分かれば思い出すかもしれないのにな。
次第に考える事に疲れてきたあたしはプリントの隅っこに落書きをしだした。
しばらくしてノックと共にポールが戻ってきた。
「お待たせしてすみませんでした。
問題は終わりましたか?」
ポールの視線が落書きに向けられてあたしは一問も出来なかった事が恥ずかしくて苦笑いをした。
「話すって動詞がどうしても思い出せなくて、つい…。」
ポールは決して怒ったりしない。いつも根気よく付き合ってくれるんだけどさすがに仕事の合間に教えてもらっておいて落書きはマズかったかしらと思ってポールの様子をちらっと伺ってみる。
「マリナ様は絵が上手なんですね。日本にいた頃からよく絵を描かれていたと聞いた事があります。」
あたしの予想とは違うポールの反応に少し驚かされた。
「いや、そんな描かれるなんてもんじゃないわよ。もちろん描くのは好きだけど仕事だったしね。しかも日本にいた時は絵を誉められるなんて一度もなかったわよ。もしかしたらあたしの絵ってフランス人好みなのかしら。」
あたしの妄想が可笑しかったのかポールはクスッと笑ってから慌てたように口元を手で隠した。
「あんた今、笑ったわねっ!隠したって分かるんだからっ!」
あたしのふくれっ面を見てポールが笑い、あたしもつられて笑った。
二人で勉強をするようになってからこんな風に笑い合ったのは初めてだった。
少し高くなった秋の空をどこまでも澄んだ風が二人の笑い声を運んで通り抜けていく。
つづく
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みなさん、こんばんは。
ご訪問ありがとうございます
あれっ?
まだシャルルが全然出てこない