マリナが目を覚ましてくれた。
まずは一安心と言ったところか…。
しかしさっきの様子だと事故による記憶障害を起こしているのは明らかだった。
さて、どうしたものか。
次に目覚めたときに先程までの事を覚えていてくれるといいんだが…。
マリナは逆行性健忘を起こしているのは間違いない。どこまで覚えているのか、また前向性健忘も同時に起こしているのか…。
マリナを不安にさせるのは逆効果なために、慎重にしなければならない。
何が起きるか分からない。看護師2名ずつを常にマリナに付けて置くことにした。
それにしても培養した細胞から再生させるなどと考え、研究を始めていたオレはどこまで狂っているのだろうか。
いや、狂ったのではない。それほどまでにマリナを失いたくなかったのだ。
何を犠牲にしてもどんなに困難な事でも成し遂げてみせるつもりだった。
自ら手放したその輝きに、再び囚われている事に驚かされる。 この輝きはオレをどこまでも追い詰めるものなのか…それとも照らし続けてくれるのか…。
昏睡状態から目覚めた彼女はオレの問いかけに言葉は発しなかったものの理解は示した。
睡眠によって彼女の脳がどこまで回復をみせるだろうか。
プルップルッ…と携帯の呼び出しが鳴る。
「急変かっ?! マリナに何かあったのか!」
オレは焦っていた。看護師には小さな変化でもすぐに知らせるように言ってあった。
「いいえ。マリナ様がお目覚めになられたので御報告したします。」
ICUへ急いで向かうと看護師から特に異常は見られず安定していると報告を受けると2人とも下がらせた。
「気分はどうだい?」
ベットの横の椅子に座ると彼女の腕をとり脈を診ながら質問してみた。
「頭がボーっとしていて靄がかかってるみたいだわ。ずいぶん眠っていたの?
私はどうしちゃったの?」
会話は成立している。こちらの言ってる事を理解し、自分の状態も理解出来ているようで安心した。脳へのダメージは記憶の部分だけのようだな。
「君は事故に遭遇して一時的に記憶が失われている。
いくつか確認したいんだが、質問に答えてくれるかい?」
マリナは不安気な顔を見せるがコクリと頷いた。上体を起こさせて座らせるとオレは胸ポケットからペンとメモを取り出しマリナに渡した。
何をするものかと尋ねるとサラサラと簡単に花の絵を描き始めた。
それはこの病室に飾られていたバラだった。記憶は失われても物を描くということは自然と体が覚えているようだった。
ここが病院であることやオレが医者であることも理解していた。
本当はここがアルディ家である事は混乱するといけないのでICUにいる事だけ教える。
彼女の欠乏してる記憶は彼女の事に関するもの全てに及んでいた。
名前、家族、仕事、友人、過去。
今は現状把握が目的なので都合上、名前だけ教えるが、それ以外の事はオレの口から説明するのは避けた。
下手に過去の話を持ち出してマリナの記憶を塗り替えてしまう事は避けなければならない。
「君の名前は池田麻里奈だ。
オレはシャルル・ドゥ・アルディ。
ここはパリで、君が完治するまでオレが見届けるから安心して治療に専念してくれ。」
マリナは少し安心したのかにっこりと微笑み、
「ありがとう、シャルルさん。早く元気になれるように頑張るわ。そして早く思い出したい…。」
「シャルルさん……か…。
マリナ、敬称は不要だ。シャルルで構わない。」
マリナへの想いはあの日オレの中で終わらせたはずだった。だかこの様な形での再会に心は乱されていた。
ましてやシャルルさん、などと…。
神が存在するのであれば何と言う仕打ちか…。
それでも彼女の笑顔が眩しかった。
自分に向けられた微笑みがオレに期待をさせる。再び手にしたくなる輝きに目を細めた。
しかし今のマリナは真っ新なキャンバスと一緒だ。どんな色にでも塗り替える事も可能だ。
治療の為に常にオレが側にいれば少なからずマリナはオレに好意を持つ可能性は否定出来ない。心理学で言えばザイオンス効果だ。日常いつも一緒に過ごすうちに良い印象を抱きやすくなる。
万が一そんな事態になれば俺は歓喜し再び彼女相手に恋をしたくなるだろう。
同時に彼女の記憶が戻る日がいつか来る事に怯えるだろう。いつマリナが全てを思い出しオレの元から離れて行くのかと考えずにはいられないはずだ。2度とあんな思いはしたくない。オレ自身が耐えきれずに己を見失ってしまうだろう。1度手に入れた彼女を2度までも失う事などこの身が耐えきれないだろう。
オレは医療チームを交え、治療に関わる頻度を皆と等しくすることにした。
そして、この数日間、マリナの行方を尋ねてくる者は現れない。1人でパリに来たというのか。その目的は。和矢はなぜ迎えに来ないのか。
そして事故当日、マリナが着ていた服のポケットに入っていた小さなメモ。
あのメモの番号は何なのか…。
つづく