忘れられないもの25
あたしはシャルルの腕の中で何度も頷いた。あった事を忘れるなんて実際には無理だって分かっていたけど忘れたいと思った。その思いが通じたのかシャルルの腕が解かれあたしは自由になった。
「今すぐにでも君をオレのものにしたいところだが、倒れたばかりの君に無理はさせられないからね。
少し休むといい。出発は明日の朝にする。もちろん君も一緒にだ」
あたしは焦ってシャルルの腕を掴んだ。
「待ってよ。いくらなんでも明日パリに行くなんて急すぎるわ。それに仕事だってあるし、心の準備ってものがあるじゃない。あたしは荷物だって何も持ってないし」
あたしの掴んだ手をそっと離すとシャルルは立ち上がりテーブルの上の携帯で何処かへかけ始めた。
「オレだ。明日の朝パリに戻る。マリナに必要な物を揃えておいてくれ。ああ、それで構わない。しばらく日本へ帰す予定はないからね。それからニーナに伝えてくれ。マリナのパスポートの手配と彼女の職場への連絡も頼む。ああ、アルディの名で構わない。何か言ってきたらあの病院を買収するまでだ」
この急展開とシャルルの本気を目の前にしてあたしはただ呆然とすることしかできなかった。あたしがこれ以上何を言ってもシャルルは聞かないと思った。でも本当にあたしはこのままパリに行くの?
たしかにシャルルに会いたくて空港まで来たけどまさか一緒にパリに行くことになるなんて思ってなかった。
シャルルは電話を切るとまだ何か言いたい事はあるかと言いたげな顔であたしを見た。
「これで問題は全て解決した。明日の朝パリへ君も一緒に行く。いいね?」
あたしは自分の心に問いかけた。あたしはシャルルが好き。ここでもし行かなかったとしてこの先どうしたいのか。またシャルルと離れたまま日本で仕事を続けていって一体どうしたいのか。病院の仕事を放り出していくのは無責任な気がする。だけど子供たちに絵を教えるのは他の誰かが代わりにできる。でも今シャルルと一緒に行けるのはあたしにしかできない。
あたしにはもう断る理由はなかった。
それにもうシャルルと離れたくはなかった。
「分かった。あんたと一緒に行くわ。もうあんたの後ろ姿を見送るのはイヤだもの」
シャルルはあたしの前まで来ると少し屈んで妖しい青灰色の瞳であたしを覗き込んだ、
「マリナ……。オレの理性を飛ばしたいのか?」
「そ、そんなんじゃないわよっ!
でもあたしは病院で子供たちに絵を教えていたの。それだけが気がかりだわ」
「それなら後任者を紹介する。日本在住の絵本画家を知っているからその人に頼んでみる。それでいい?」
「あんたどれだけ知り合いがいるのよ?」
「オレを誰だと思っているんだい?」
あたしはおかしくなってクスッと笑った。この人はあたしの抱えている不安も悩みも全て解決してくれる。それだけあたしを必要としてくれているのが分かって胸が熱くなった。
「あんたはパリが誇る天才、シャルル・ドゥ・アルディだったわね。あんたに出来ない事なんて何もない。何だかホッとしたら眠くなってきちゃった。あ、あたし寝ようかな」
妖しげな空気を感じてあたしは慌ててシーツをかぶった。
「その方がいい。パリまでは十分に時間がある」
艶やかな眼差しにあたしは再びガバッと起き上がった。
「えっ?!どういう意味?」
「うちのジェットは寝室も完備している。オレたちが共に過ごすのに十分な時間はあるってことさ」
うちのジェットって?!寝室って?!
シャルルは何で帰るつもりなの?
「どういうこと?普通に飛行機に乗るんじゃないの?」
「アルディのプライベートジェットが羽田で待機している。君も聞いただろ?パリ行きの飛行機が離陸直後にエンジントラブルを起こして引き返してきたって。
その影響で羽田への離発着はアルディのジェットも含めて全て運行見合わせになったんだ。おかげで君に会うことが出来たんだから文句も言えないが」
それじゃあたしが見送ってた飛行機にシャルルは乗っていなかったっていうこと?
それにこの部屋、よくよく見てみれば空港の救護室にしては豪華すぎる気がする。
「ねえ、ここはどこなの?」
つづく