忘れられないもの1
疲れた体を引きずるようにして車に乗り込んだ。
「出せ。」
セーヌ川沿いに車は走り出した。
程なくしてラ・ヴィレット公園が左手に見えてくる。
パリ北東部に位置するこの公園はナポレオン3世によって造られ、ベルナール・チュミが設計したものだ。55ヘクタールもの広大な敷地を有し、市内で最も大きな公園だ。
多くの公園が夜間閉鎖される中、ここは常時開放されるためこの時期になると人々が集いそれぞれに春の訪れを楽しむ。そして今年もこの季節が近づいてきた。
「この辺りの桜はまだ蕾みですね。」
隣に座るジルが徐ろに声を掛けてきた。
「あぁ…。」
オレは曖昧に答えると再び車窓に視線を戻した。何を見るわけでもなく流れていく景色を漠然と眺めていた。
「日本では桜が咲き始めている頃でしょうか。」
いつになく口数の多いジルの様子を伺いながらオレは彼女の真意を探る。
フランスで目にする桜はその殆どが二重桜や八重桜のカンザンやフゲンゾウだ。いわゆる日本の桜とは少し印象が違う。
ソメイヨシノは正式には日本の国花ではないが日本を代表する花として広く知られている。
つまり車窓から見える桜から日本の桜を連想し、関連付けて話題にするにはいささか無理がある。
「例年日本では三月下旬から四月上旬にかけて各地で満開を迎えるからおそらくそうだろう。」
「あの見事に咲き誇る美しさと儚く散り行く様を一度はこの目で見たいものです。」
「ソメイヨシノが見たいのならブローニュのアルベールカーン庭園にもあるぞ。」
この先も日本へ行くつもりはない。
あの日、二度と戻らないと心に決めたからだ。
小菅で彼女と別れてからパリに戻ったオレはジルを呼び戻し、当主復権を果たすために検察当局に握られた政治工作の証拠を揉み消し、強奪された聖剣を取り戻した。そしてオレは以前と変わらぬ日常を取り戻していた。
ただそれは孤独な日々の繰り返しでしかない。あの時オレの元から離れて行った人間は再びオレの元に戻り、ただ当主がミシェルからオレに取って代わったと言うだけだ。
彼等にとって当主が誰であるかは問題ではない。
静かに本邸の門をくぐり玄関前に車は到着した。車から降り立つといつもは静かな玄関前が何やら賑やかだ。
「シャルル様は君のような子供にお会いにはならない。早く家に帰りなさい。」
警備員と子供が何やら騒ぎを起こしている。見ればまだ7、8才程の少年だ。警備員に両脇を抱えられ連れ出されようとしていた。
あのような少年がアルディ家に何の用があると言うのだ。
「何の騒ぎだ。」
「申し訳ございません、シャルル様。
この少年がシャルル様にお会いしたいと言って聞かないもので…。」
見知らぬ少年に関わる時間などない。
「つまみ出せ。」
少年をいちべつし通り過ぎようとした瞬間、少年はオレに向かって叫んだ。
「母を助けて下さい。」
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みなさん、お久しぶりです。
各地で桜が咲き始めましたね。暖かくなり今週末には関東でも見頃を迎えそうです。冒頭で桜を眺めるシーンを書いたので記事をアップしましたが着地地点しか決めていないためスローになるかと思います気長にお付き合い下さいませ。