パリに戻ってきた頃には辺りはすっかり暗くなっていた。お屋敷に着くとすぐにシャルルは希少庫の鍵を私室の金庫にしまい、ホッとした様子だった。
「これで明後日の取引に間に合わせることができるよ。これもすべて君のおかげだ」
言いながらシャルルはキッチン横にあるワインセラーの扉を開けた。
「取引って?」
あたしはメイドさんに持ってきてもらったチーズをパクりと口に放り込んだ。
「赤でいい?」
「あ、うん」
シャルルは手に取ったボトルを目の高さに持つと中の状態を確認するかのように眺めた。
「前にミシェルが盗まれた聖剣のことは覚えてる?」
言いながらキャビネットからグラスを二つ取り出すと、あたしの隣に座った。
「それでミシェルは当主の権利を失ったのよね?」
「あぁ。おかげでオレは孤島送りを免れた」
勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、シャルルは手際よくコルクを抜くと赤みがかった紫色のワインをグラスに注いだ。
「オレ達の未来に……」
互いのグラスが重なり、カチンと耳心地の良い音が鳴った。シャルルはグラスを回して香りを確かめると口に含んだ。
「オレも暫定的に当主に復権したけど、聖剣を取り戻すことが正式な当主復権の条件なんだ。それでプラハまで行ったんだけど失敗に終わった」
「今は交渉中だって、ジルが言ってたわ」
「華麗の館から聖剣を盗掘したのはドイツのミカエリス家当主、レオンハルトという男だ」
「あたし達を助けてくれたあの黒緑色の髪の人?」
「そう。レオンハルトはグノームの聖剣を含む七聖宝を守護する立場の人間。それで華麗の館から聖剣を奪って行った。これはオレが独自に調べたことだが、聖剣は彼らの元へ戻ると、とりあえずの目的は果たしたらしい。そこでオレは改めて取引を申し出たんだ。現在フランス語で書かれた最も古い文献と言われているのが842年、ストラスブールの宣誓なんだ。だがアルディ家にはそれよりもさらに一年古い841年に書かれた世界最古の文献、ロタール一世が父ルートヴィヒ一世との共同皇帝を解いた際に書いたフォントノア宣誓が保管されている。これは祖父が趣味で収集した品だと言われているが元々はミカエリス家が所有していたらしい」
「なんでそれがあんたの家にあるの?」
「おそらく当時、文献の収集に熱心だった祖父がミカエリス家の娘ジュリアに持ち出させたのではないかとレオンハルトは睨んでいるようだ。そこでオレはこれを引き渡す代わりに役目を終えたグノームの聖剣をアルディで保管されてくれないかと持ちかけたんだ」
「物物交換ってことね」
「実質的にはそうだが、あくまでも建前上は保管という形だ。彼の組織での立場を考慮してこちらがだいぶ譲歩した形にはなったけどね。その取引が明後日なんだ。ところがその文献を保管してある希少庫の鍵、スティープルキーが見当たらずに行き詰まっていたわけだ」
「ジルの狙い通りだったってわけね。あたしに会ったらシャルルが鍵の場所を思い出すかもしれないって」
あたしはこれまでの事を思い返して、胸がじんと熱くなった。最初に会った時はどうなっちゃうのかと思ったけど本当に良かった。
「鍵のことだけじゃない。ジルはきっと君を忘れてしまっているオレを見ていられなかったんだ。ジルにだけは君とのことをすべて話していたからね」
シャルルだってあたしを忘れたままでいたいはずがないとジルに言われた時のことを思い出した。
ジルのあの言葉がなかったらあたしはとっくに日本に帰ってしまってたかもしれない。
「あんたが思い出したことを早くジルにも教えたいな」
「ジルのことだ。君がオレの部屋にいる時点で何かを察したと思うよ。オレが女性を部屋に入れたことなんてないからね」
「そう?前に和矢と来た時も入れてもらったけど」
あの時はシャルルが孤島に送られてしまう前に最後に望みを聞いてきてくれって和矢に言われて無理やり押し入ったんだけど。
「あの時は緊急時だったし、相手は君じゃないか」
「一昨日もよ。まだあたしのことを忘れていたのに入れてくれたわ。昨日だって……」
「あれは、君が何度もめまいを起こしているようだから診てやろうと思っただけだ」
シャルルは不貞腐れたように言った。
あの時は全然そんな風に見えなかったけど、もしかして。
「でも結局、話をしただけだったわね。ジルとはどこで知り合ったんだ?とか」
「目を張らしていたから君に悪いことをしたんじゃないかって思ったんだ。今思えば君のことが気になって仕方なかったんだろうな。フェリックスと一緒にいる君を見てどうにも落ち着かなかった。君を忘れていながらオレは潜在的に嫉妬していたんだ」
「じゃあ、フェリックスの作戦もあながち間違ってはいなかったってことね」
「作戦?」
シャルルは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「あたし達が親密そうにしてたらシャルルの中の燻ってる記憶を呼び起こせるんじゃないかって」
苛立たしげにシャルルは手にしていたグラスを置くとあたしに向き直った。
「それで仲良しごっこか?君は頭が悪いのか?!」
シャルルの勢いに圧倒されてあたしはしどろもどろになった。
「何、がよ……?」
「その結果、ただフェリックスが君に本気になっただけじゃないか」
「まさかフェリックスがあたしを好きになるなんて思ってもいなかったのよ。だってあたしはシャルルが好きって話していたし、それに会ったばかりだもん。普通はそんな風に思われるとか考えないわよ」
「甘いな。会ったばかり?そんなことは関係ない。それに人を好きになるのに相手がいるかどうかは問題ない」
「それは……」
シャルルがかつての自分のことを言っているようであたしは何も言えなかった。
たしかにあたしは和矢が好きってシャルルに話していた。それでもシャルルはあたしを思ってくれていた。
「フェリックスと二人にさせたのはオレだけど、キスまでさせるとは……」
「ちょっと、させるって人聞きが悪い言い方しないでよ……」
シャルルの手があたしの頬に触れた。
「あの時、無性に腹が立った」
真っ直ぐにあたしを見つめる青灰色の瞳に激しい光が走った。
「シャルル……」
「オレが忘れさせてやる」
つづく